昔も今も、多くのスタッフの前で全脱ぎの姿をさらすことは、女優として覚悟がいること。ギリギリの攻防戦は、悲劇となりうることも多かった…。
高橋惠子が「関根恵子」名義でデビューしたのは70年のことである。経営危機に見舞われた大映にあって、15歳から脱ぎ姿を見せ続ける必要があった。
高橋が、かつて本誌に語っていたところでは、「撮影所長から『高校生ブルース』(70年)の台本を渡されて、家に帰って熟読すると」上半身を全部脱ぐという記述や「妊娠したおなかを恋人に蹴られて流産しそうになるとか、それはもう恥ずかしさの極致でした」という。
“レモンのイメージの男女の営み”といった意味の路線名が名付けられ、わずか1年半で7作連続の主演作が封切られる。もちろん、全作が脱ぎありだったのは、今の時代では考えられないことだ。
「脱ぐ脱がないよりも、1年に3日しか休みがない忙しさのほうが、自分がゆがんでゆく感じがしました」
そう語った高橋は一時、失踪や自死未遂などで世間を騒がせることも多かった。
70年代に豊かな体の脱ぎ姿をグラビアで見せつけた水沢アキの、映画での艶シーン解禁は「やさしい手」(11年、ファインフィルムズ)だった。五十路を超えての完熟脱ぎで、しかも役柄が「借金苦から手コキ嬢になる主婦」という刺激的な役柄だった。
ただし、水沢は「まさかあんな役と思わなかった」と激怒し、撮影は続けたものの、確認を怠った担当マネージャーを厳しく叱責している。
80年代アイドルの大西結花(51)は、日本映画初のヘア見せの脱ぎシーンを披露している。川端康成原作の「眠れる美女」(95年、ユーロスペース)のこと。脱ぎがあってカラミがある内容に、
「あの、これは私、できません!」
と、横山博人監督のオファーを、当初は即答で断っている。ただし、1年後も監督が待ち続けていることを知ると心変わりし、やってみる決意をする。
原田芳雄の目の前で脱いだ体を見せるシーンを、大西は、最初の脱ぐ場面ゆえ最小限のスタッフにするように「気を遣っていただいたんですよ」と振り返っているが、「でも私、やるって決めちゃうと気にならない性格なんです。あそこに何人いようが平気だったと思います」とのことだった。
本人の心意気とは裏腹に、所属事務所の社長が失踪したことで「借金返済」のために脱いだと伝わってしまったのは、忸怩たる思いであったようだ。
08年に公開された「おくりびと」(松竹)は、アカデミー賞外国語映画賞に輝いたことは記憶に新しい。滝田洋二郎監督による実に54年ぶりの快挙を日本中が喜んだが、ただひとり、いとうまい子だけは消えない遺恨を抱えていた。
まだ「伊藤麻衣子」の名義だった87年、滝田監督の「愛しのハーフ・ムーン」(日活)に主演したのは23歳の時だ。
ここでいとうは「前張りをつけての脱ぎ撮影」があることを、現場で初めて知らされた。この当時のいとうは清純アイドルだったゆえ激しく抵抗するも、聞き入れられない。ギリギリの“セミ”で強行した撮影は、いとうの公式プロフィールからすっぽり抜けている。
多岐川裕美のデビュー作は、本誌に連載されたマンガが原作の「聖獣学園」(74年、東映)である。名物監督である鈴木則文にスカウトされ、劇中ではバラの枝で胸を巻かれるようなハードなシーンも見せた。
ただし、多岐川はこれ1作のみで脱ぎを封印。さらに80年には「監督にダマされて」脱ぎ姿となったと告白し、鈴木監督が「ダマされたとは何事だ。告訴する!」と反論する騒動になった。もっとも、抜け目がなかったのは東映で、騒動の渦中に「聖獣学園」をリバイバル上映し、ヒットさせるという大胆さであった。