石原裕次郎没後30年の今年、初めて明かされる石原プロのビジネス戦記。映画の失敗で8億円の負債を抱え、倒産危機に直面した石原プロは、いかにして70億円を蓄える優良企業に変貌したのか。作家・向谷匡史氏は新刊「太陽と呼ばれた男──石原裕次郎と男たちの帆走」で、名作ドラマの舞台裏を描いた。
映画制作の失敗による借金にもがきながらも、石原プロの経営が少しずつ持ち直すのは昭和51年1月、日本テレビでスタートした「大都会」シリーズのヒットによってだった。
刑事・黒岩頼介(渡哲也)率いる黒岩軍団の活躍を描くアクションドラマで、石原裕次郎と渡哲也の二枚看板を中心に、寺尾聰、神田正輝、松田優作など若手人気俳優たちが活躍。石原プロは日本テレビと二人三脚で、テレビ界を席巻していた。
ところが3年後、「大都会PARTIII」を最後に石原プロは突如手を引き、テレビ朝日で「西部警察」をスタートさせる。「大都会」シリーズの延長線上であったことから「好条件でテレビ朝日が引き抜いたのではないか?」とも噂された。
石原プロはなぜ、テレビ朝日へ“移籍”したのか。
水面下で動いたのは名物番頭の“コマサ”こと小林正彦専務だった。
昭和53年9月10日夜、成城の石原邸──。コマサが裕次郎と渡を前に、テレビ朝日からのオファーを切り出した。ところが、
「お前、どうかしてんじゃねぇのか!」
裕次郎が険しい顔で言った。「大都会」だけでなく「太陽にほえろ!」という高視聴率ドラマにも裕次郎は出演している。「日テレには義理がある」──そう言って反対した。
だが、それでもコマサは食い下がる。
「有利な条件を勝ち取れます。石原プロを再建する千載一遇のチャンスです」
再建を果たして映画を撮るためにも、苦労をかけている社員たちに報いるためにも、石原プロは稼がなければならない──コマサは意を尽くして説得するが、
「だからといって義理を欠いていいということにはならない」
裕次郎は頑(かたく)なだった。
これまで裕次郎に反論したことのないコマサが姿勢を正し、身を乗り出すようにして言った。
「視聴率が落ちても、日テレが石原プロを養ってくれるんですか? 映画を撮らせてくれるんですか? 義理だ筋だというのは男同士の話であって、組織対組織は非情なもんでしょう。組織は社員を養っていく義務があるんじゃないんですか?」
渡は二人のやりとりを黙って聞いていた。どちらも一理ある。夢は男の宝だという。だが、夢を食っては生きてはいけない。夢を実現するためには越えなければならない壁があるのではないか。ジレンマを感じながらも、
(いずれにしても、俺は社長についていくだけだ)
と腹をくくっていた。
二人が帰った後、裕次郎は自問自答を繰り返す。「映画を撮る」を合言葉に社員たちは身を削るようにしてがんばっている。彼らの苦労を思えば、自分がこだわる義理や筋はちっぽけなものかもしれない‥‥。
裕次郎はテレビ朝日への移籍を決断する。
作家・向谷匡史