〈ハードボイルドGメン’75、熱い心を強い意思で包んだ人間たち〉──胸躍るナレーションと勇壮なテーマ曲が期待を高めた。大ヒット作「Gメン’75」(75~82年、TBS系)に“和製ドラゴン”として活躍したのが倉田保昭(74)だった。
「Gメン」といえば、陽炎が揺らめく滑走路を横一列に並んで歩くタイトルバックがおなじみだ。草野刑事として初回から出演した倉田が振り返る。
「メンバーが替わるたびに撮り直していたね。季節に関係なく陽炎を立たせるために水をまいたりしたよ。あれは丹波哲郎さんの歩幅に合わせて歩くのが難しかった。イチニ、イチニという感じでそろえていたよ」
TBS土曜夜9時の枠は「キイハンター」(68~73年)の高視聴率を受けて、「アイフル大作戦」(73~74年)「バーディー大作戦」(74~75年)と続くアクションシリーズとなった。だが、いつも背水の陣だったという。
「オレは『バーディー』の後半からレギュラーになったけど、その前の『アイフル』と続けて視聴率が悪かった。もし『Gメン』も、19本やってダメならやめるという話だったんですよ」
コミカル路線を脱した「Gメン」のハードボイルド志向は、予想外の高視聴率を獲得。ただ、アクション俳優として活躍していた倉田は、自身の居場所に悩むことになる。
「リアルな話が多かったので、オレが出ていていいのか、浮いていないのかと自問自答する日々。ここでアクションやっても変だなと思ったんです」
転機となったのは、倉田の提案で実現した「香港カラテロケ シリーズ」である。71年から香港のカンフー映画で活躍し、ブルース・リーやジャッキー・チェンとも交流があった倉田ゆえのプランだった。
「何かあったら僕が責任を持ちますと言ったよ。現地のロケ場所の手配や通訳、ヤン・スエなど知り合いの役者にも僕がダイレクトに声をかけてね。香港は九龍城など無法地帯もあったけど、幸い『クラタが来ているなら』と、トラブルにならずにロケができた」
日本でも30%以上の視聴率を誇ったが、香港での放送は50~60%を記録することもあったという。
「向こうではマイケル・ホイ兄弟などコミカル路線が多かったから、ああいう硬派なタッチは珍しかったんでしょうね。小田切警視役の夏木陽介さんと香港ロケ中にナイトクラブに行ったら、僕らの顔を見て生バンドが主題歌の『面影』を演奏してくれたこともありました」
テレビにおける倉田の当たり役ではあったが、それでも「自分がこのドラマに出ていていいのか」と悩むことは尽きなかった。そして番組開始から4年後の79年に降板を申し出る。
「かなり強引に辞めたものだから、正直、日本の映画やドラマから干された部分はありました」
窮地を救ったのは、やはり香港のカンフー映画だった。人気者のサモ・ハン・キンポーの作品に出演するなど活動再開に成功。それは70歳を過ぎてなお、衰えることはない。
「海外の映画では、今も現役でアクションをやっていますよ」
さらに自身の道場を主宰するなど、和製ドラゴンは精悍なままである。