3代目ミスタータイガースとも称された、元プロ野球選手の田淵幸一氏。阪神タイガース1年目に22本塁打、56打点の活躍で新人賞を獲得、1975年には43本で本塁打王に輝き、西武ライオンズに移籍してからも80年には40本以上の本塁打をマークし、広岡達朗監督のもと、82年、83年の日本一連覇にも大きく貢献したスラッガーだ。
そんな田淵氏が、主に西武ライオンズで活躍した元プロ野球選手の石毛宏典氏のYouTubeチャンネル〈石毛宏典TV〉に出演、デビュー当時に実感した大きかったプロとアマの差や、その対応策について語った。
12月20日に〈【田淵幸一#2】ドラフト前に川上哲治監督との密会してた!?本当は巨人にいく約束だったのに…〉とタイトルをつけた投稿回がそれだ。
田淵氏はプロとしての活躍もさることながら、法政大学時代の1968年には、通算22本塁打をマークし、これは97年に、当時、慶応大学に籍を置いていた高橋由伸氏(後に巨人)に23本で抜かれるまでのリーグ記録であった。
それだけの実績を備えた田淵氏だが、代打で立ったプロ初打席の相手投手は、最多勝を2回獲得し、カミソリシュートの異名を取った平松政次氏(大洋ホエールズ)。ボールはまったく見えず、三球三振に終わり、「速くて振れなかった。六大学の時あんなボール放るやついねえよ」と苦笑を交えて振り返った。
しかし、田淵氏のスラッガーたるゆえんは、最短距離で打つために、頭の位置まで上げていたグリップを胸元まで下ろした対応力の早さで、次の試合では2本塁打を記録しており、プロ初打席の三球三振で目が覚め、バッティングフォームを改造、後の活躍に繋がったことから「平松に感謝する」とも心の内を明かした田淵氏。
傘をさすようにバットを構えると例え、自然体を強調した田淵氏の感慨深い話が拝聴できる興味深い回だった。
(ユーチューブライター・所ひで)