帰国した田中にナインたちは、シーズンに向けて切り換えるよう促した。
「こういう時は妙な慰めよりもいいと思って‥‥」
と嶋は言う。その代わり、開幕までのわずかな時間、田中がブルペンに入る時は黙って嶋がボールを受け続けた。
帰国してからの田中の目つきは少しずつ変わってきた。WBCでの反省もあったのかもしれない。他の投手たちの調整を見て自分へのルーティン(習慣)の中に生かせるものを探したのかもしれない。この時期の田中の様子について佐藤は、ダルビッシュが急成長した時とよく似ていると語る。
「なかなか思うように勝てなくて、八木(智哉=現オリックス=)が連勝するのを見て、こっちが何も言わなくてもトレーニングを自分からしていた。WBCから戻ってきてからの田中にも同じものを感じる。前田の存在も大きかったのかもしれない」
田中は以前、夫人同士がつきあいのある関係で、ソフトバンクの斉藤和巳と食事をする機会があった。その時、「エースとは?」という質問に「負けないのがエース」と斉藤は答えたという。そして「僕の連勝記録などすぐ抜いてほしい。その時に見えてくるものがあるから、一緒に話せると思う」と続けたという。
「エースというのは優勝のために投げる」と高校時代から教わってきた田中にとって、「負けないのがエース」という言葉は胸に刺さるものがあった。
負けないためのピッチングとは何か。かつて語った江川卓の言葉が、田中の気持ちを代弁しているに違いない。
「相手が0点で抑えれば0点、8点取ってくれたら、7点まで許しても勝てる。何が何でも三振を取りにいって0点に抑えればいいというものではない。それは自己満足にすぎない。最後の最後では、お客さんに喜んでもらえる余力も必要」
開幕に向けてチームもいろいろと配慮した。開幕投手の座を新人・則本昴大に譲り、本拠地開幕となるKスタ宮城での第4戦目となるオリックス戦での登板となった。「地元での準備をきちんとしてくれ」という監督の粋な計らいであると同時に、若い則本が好投すれば、いやが上にも田中の負けじ魂に火がつくだろうという思惑があったのだろう。
そして迎えた4月2日の地元開幕戦、マウンドに立った田中は7回5安打1失点のピッチングに、「点を取ってもらったあとすぐに四球から失点をしたのはいただけないですね」と照れくさそうに答えていたが、この時、田中の投球の意図をしっかり読み取っている男がいた。帰国後、ずっと田中の球を受け続けている嶋だった。そしてポツリと言ったのは「将大、わざとボール(球)を投げている」だった。そして、この時から田中の「神様」稲尾超えの伝説が始まった。
◆スポーツライター 永谷 脩