甲斐バンドやアルフィーのデビューと同じ74年、叙情派フォークデュオの最高峰に「ふきのとう」は位置した。ほぼ全ての作詞作曲を手掛けた山木康世(70)が、名曲の数々を語る。
──70年代の「ふきのとう」は、ライブ本数の多さでも知られていましたが。
山木 最高で年間230~250本はあったんじゃないかな。プロレスの興行並みですよね(笑)。当時の事務所がオファーを全部引き受けるので、今日は大阪、明日は北海道などという強行軍ばかりでしたよ。
──同じ北海道出身で、大学の後輩だった細坪基佳と結成し、74年9月に「白い冬」が発売されました。
山木 吉田拓郎さんの「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)で、初めてオンエアされたんですよ。僕らスタジオに10人ほどで待機していて、流れた瞬間に万歳三唱しましたね。
──当時のフォークには珍しく、オーケストラやコーラスを駆使した壮大なアレンジが斬新でした。
山木 アレンジの瀬尾一三さんが、ロックのアプローチを含めたアイデアを、試行錯誤して詰め込んでくれた感じでしたね。それは先発の「白い冬」だけでなく、中継ぎの「風来坊」(77年)、締めの「春雷」(79年)にも同じことが言えますね。
──北海道出身は75年に中島みゆき、77年に松山千春がデビューし、ブームの先駆者になっていきましたが。
山木 みゆきは札幌のラジオでも一緒になったりしていたので、僕らが先輩とかそういう意識はなかったですよ。
──先ほども話にあった「風来坊」は、20万枚を売り上げた「白い冬」以来のヒット曲。当時、発売直後に熊本でコンサートを見て、この曲が流れると会場が異様な熱気に包まれたことを覚えています。
山木 そうでしたか。実際、これが売れたおかげで低迷中のコンサートが、またツアーができるまでに回復したんです。さらに、デビュー時に同じ事務所だった海援隊の武田鉄矢さんに「風来坊のような曲を作ってくれ」と頼まれまして。
──それが名曲「思えば遠くへ来たもんだ」ですね。武田鉄矢主演で映画化、古谷一行主演でドラマ化もされました。
山木 詞は武田さんですが、曲ができてデモテープを持って武田さんのアパートを訪ねたんですよ。2人で聴いていたら奥さんが「いい歌ね」とおっしゃって、武田さんと「これで決まり!」と乾杯しました。
──締めとなる「春雷」も根強いファンが多い名曲。
山木 最初は男女の別れをテーマにした歌詞で。ところが、当時のマネージャーに弾き語りで聴かせたら「メロディーは文句なし。でも詞はこれじゃない」と言われて書き直し。僕の中では、札幌にいる母親がガンで死期が迫っていることに頭がいっぱいで、母へのエールというか、歌で恩返しできればという歌詞になったのです。
──初めて出演した「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)での涙の熱唱も話題になりました。
山木 歌う前に司会の芳村真理さんから、母親の病状のことを振られたんですよ。事務所とも言わない約束だったのに、ここで話題にされて「お袋が見てたらどうするんだ!」と思いました。
──テレビはどうしてもエピソードを欲しがりますから。さて、愛された「ふきのとう」は92年に解散。その後は、ソロで全国をくまなく回っていらっしゃるようですが。
山木 今も年間90本はやっていますね。もともと旅が好きなので、地方でその町のうまいものを食べて飲んで、そのついでに歌っているという感覚で。
──70歳ですから古希を迎えたわけですね。
山木 それで「RAOJIN(老人)」という曲も作りました。自分の趣味のような形で歌っていますから、この年齢でも疲れるということはないですね。
──まだまだ名曲が生まれそうです。