音楽評論家・富澤一誠氏は、フォークブームの始まりとともに執筆活動を始めた。いわば歴史の生き字引として、若者音楽の変節と熱気を解説する。
75年2月5日を、私は「フォーク名曲の日」と呼んでいます。同じ日に発売されたのが風の「22才の別れ」、かまやつひろしの「我が良き友よ」、ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」、そしてチューリップの「サボテンの花」です。それほど、フォークブームが過熱していたと言えます。
さて、フォークソングの第1号ヒットは、マイク真木の「バラが咲いた」(66年)と言われています。その後、関西フォークから岡林信康や高石ともやが登場した。岡林の「私たちの望むものは」(70年)に代表されるように、学生運動の空気で連帯を歌った。
それを「私」という言葉で個人そのものを歌ったのが、吉田拓郎の「今日までそして明日から」(71年)です。ちょうど50年前にシングル発売されたこの曲は「私は今日まで生きてみました」と歌うことで、若者たちに大きな影響を与えた。さらに井上陽水の「傘がない」(72年)は、若者の社会問題よりも、君に会うための傘がないことのほうが大事と「個」の部分がさらに拡大。そしてかぐや姫の「神田川」(73年)で、より個人的な歌となり、四畳半フォークという表現も生まれました。
ほかにも、あがた森魚の「赤色エレジー」(72年)や泉谷しげるの「春夏秋冬」(72年)、遠藤賢司の「カレーライス」(72年)にガロの「学生街の喫茶店」(72年)もヒットし、黄金のフォークブームを迎えます。
その先頭に立ったのは、稀代のカリスマ性を持った拓郎ですね。若者たちにギターとジーンズを普及させ、髪を肩まで伸ばすほどの影響力を与えた。拓郎は71年の「中津川フォークジャンボリー」で2時間近く「人間なんて」を熱唱し、メインの岡林を完全に食ってしまった。時代が拓郎を選び、その後の「日本初のコンサートツアー」や「個人レーベル」など、その名のごとく原野を開拓していきました。両輪となった陽水もまた、73年に発表した「氷の世界」が、日本で初めてとなるアルバムのミリオンセラーを記録しています。
74年は叙情派フォークブームが起こります。さだまさしが組んだグレープの「精霊流し」、N.S.Pの「夕暮れ時はさびしそう」、ふきのとうの「白い冬」がこの年にヒットしました。
75年はヒット曲が多いですが、とりわけ女流シンガーの活躍が目覚ましかった。荒井由実の「あの日に帰りたい」にイルカの「なごり雪」、中島みゆきの「時代」や小坂恭子の「想い出まくら」も、この年のヒット曲です。男性アーティストではアリスの「今はもうだれも」や甲斐バンドの「裏切りの街角」も、グループが飛躍する支持を得ました。
さらに事件と呼べるのは、6月1日に小室等が社長、拓郎・陽水・泉谷が取締役となった「フォーライフ・レコード」が誕生したこと。アーティストによるレコード会社は大きな注目を浴びました。
また拓郎は8月2日から3日にかけ、静岡のつま恋多目的広場に、6万人の観衆を集め、かぐや姫とオールナイトコンサートを成功させた。これは今の音楽フェス隆盛の原点として語り継がれるでしょう。
フォークシンガーは「テレビに出ない」という歌謡曲に対するアンチテーゼを示し、ライブやアルバムで成果を出す、一種のスタイルを築き上げました。70年代後半は、ユーミンの登場から「ニューミュージック」という言葉に取って代わられるようになる。それでも、松山千春や長渕剛、永井龍雲らがフォークの最後の世代として気を吐きましたが、80年代に入ると、サウンド志向の波に押されて下火となってしまいます。
ただ、今なおフォーク酒場があちこちにできたり、ベスト盤がリリースされるなど、根強い人気を誇っていることは疑いようがありませんね。