18歳でデビューした山崎ハコ(63)は、小柄な体から、情念の歌を振り絞るように歌った。コアな人気を誇った当時、作品以上に壮絶な日々を送っていたという。
70年代のフォークシーンでは、森田童子と並んでミステリアスな存在だった。75年にアルバム「飛・び・ま・す」でデビューすると、パワフルに鋭く社会をえぐる歌が話題となった。
「デビューしたのはエレックレコードだったんですよ。泉谷しげるさんがいるので喜んで入ったら、泉谷さんはフォーライフ・レコードの設立に参加して、いらっしゃらない。しかも、エレックもアルバム2枚を出したところで倒産してしまって」
幸いなことにキャニオンレコードに移籍が決まり、アルバムも無事に再発売されることに。さて、LPジャケットからも伝わる暗い印象は、実際の性格だったのか。
「これは完全に私ひとりしかいない事務所の意向。ことあるごとに『笑うな』『しゃべるな』と言われていて、誰かと親しくなることもなかったですよ」
ハコのデビュー当時、空前の女性シンガーソングライターのブームが起こった。中島みゆき、荒井由実(当時)、尾崎亜美、イルカ、谷山浩子らが並んだが、交流を持ったことはない。そこには、考えられない、恐るべし理由が潜んでいたという。
「私に『しゃべるな』と言ったのは、アーティスト同士の情報を共有させたくなかったんでしょうね。実は社長が夜逃げするまでの22年間、一度も印税をもらったことがない。というか、印税のシステムすら知りませんでした」
給料は5万円で、これに社長が用意した7500円のアパートがあてがわれたが、若い女性なのに風呂はない。ツアーが多いから風呂はいらないだろう、という理由だった。
「仕方ないから水道水で髪を洗っていましたよ。それにしても、いちばん売れた2枚のアルバムの印税だけでも請求したいところでしたが、すでに時効の20年を過ぎているということでした」
ツアーでも、ある日突然バックバンドがいなくなった。40キロに満たない細い体で大きなギターケースを抱え、ステージも2時間をたったひとりでこなす。全ては、利益をより大きくするためだったのだろう。
さて、そんなハコのポピュラーな作品は、五木寛之原作の「青春の門」をモチーフにした「織江の唄」(79年)だ。
「もともと新聞で五木さんが書いた詞に曲を公募するというのを見て。ただし、プロは参加することができない。それでも作って、私のシングルのB面には入れようと。それから81年に東映で『青春の門』が映画化され、私が音楽を担当し、イメージソングとしてこの歌も蘇ったんです」
テレビスポットでは頻繁に流れたが、実は映画の中でこの曲は流れない。楽しみにしていた観客のために、休憩時間にレコードを流していた。
「主演の菅原文太さんに『ハコ、よくやった』と褒めていただいたのがうれしかったですね」
その後、フリーとなってファンの支えもあり精力的な音楽活動を再開。01年には井上陽水の「氷の世界」などで名演奏を披露したギタリスト・安田裕美と結婚。公私ともによきパートナーであったが、昨年7月6日に大腸ガンで亡くなった。
「コロナ禍で葬儀もできなかったので、今年7月4日に原宿・クエストホールで展示会を開きます。その日までには、彼が弾いてきた名曲のコンピレーションアルバムを完成できたらと思います」
今なお最高の伴侶であるようだ。