日本のリバプールと呼ばれたのは福岡である。78年にデビューした永井龍雲(63)もまた、音楽の聖地から全国へ羽ばたいていった。
──デビューされた頃、同じ九州出身の長渕剛と並べられたように思いますが。
永井 そうか、僕の中では松山千春と比べられることが多かったと感じていました。ともに地方から発信するというような記事が多かったですね。
──なるほど。さてデビュー曲の「想い」(78年)を発表したのは、まだ20歳だったんですね。
永井 高校を卒業して、大学受験に失敗したので一度、東京に出たんです。そこで知り合った人に「福岡に帰って、曲をどんどん作ったほうがいい」と言われまして。それからストックがたまったところで、アルバムの制作に取りかかりました。
──20歳が作る歌は、経験値の点で不安はありませんでしたか。
永井 例えば同棲しているような歌でも、どうしても想像に頼らざるを得ないところはあります。ただ、フォークソングは「自分の生きざまを歌える」というので夢中になった。小学生の時に岡林信康さんの「山谷ブルース」を歌い、これにしっくりくる自分がいました。日々の悲哀のようなものを歌にするんだと。
──根津甚八がカバーした「素面酒」(78年)などは、その最たる例でしょうか。さて79年、広く知られることになったのが「道標ない旅」ですね。
永井 原題は「標ない旅」だったんです。それではわかりにくいんじゃないかということで、あえて「道標」を「しるべ」と読ませるタイトルになりました。
──「グリコアーモンドチョコ」のCMソングになったことで大量オンエア。大きなチャンスと感じましたか。
永井 CMソングなので電通の方が参加するなど状況は変わりましたが、僕自身は意識することはなかったですね。ただ、それまで作ってきた歌と異質な曲ではあったかもしれません。
──残念なことに、大ヒットにさしかかろうかという10月、山口百恵が大阪のリサイタルで三浦友和との「恋人宣言」を披露。そのため、グリコのCMも急遽、ふたりが共演したものに差し替わってしまい‥‥。
永井 僕の曲が2クールのはずが1クールで終わってしまった。レコード会社と事務所は「あれがなければなあ」と悔しがっていましたが、僕自身はさほど興味はなかったです。ただ、あの歌が多くの人に愛され、作家の小山薫堂さんにも「青春の思い出の10曲に入ります」と言ってもらえて、歌が残っているのはありがたいですね。
──自身の活動だけでなく、89年に五木ひろしに提供した「暖簾」が日本作詩大賞の優秀作品賞に輝くなど、作家としても評価が高いですね。
永井 五木さんからはアルバムの1曲という依頼で作ったんですが、気に入ってもらえてシングルカットされて。五木さんの年代の力と歌唱力で歌っていただいたからこそ、ヒット曲になるのだなと勉強させていただきました。
──現在は沖縄に居住し、コンサートも定期的に開催しているとか。
永井 年間60本は、今もやっています。曲を作るのはずっと好きで、ライブはその手応えを確認しに行く形でしょうか。今のほうが創作意欲も高く、歌作りのために沖縄に住んでいるようなものですね。