ひのきしんじが五木の音楽ディレクターを担当して2年が過ぎた。あれほどヒット曲を量産してきた五木が、初めて停滞期に入ったのだ。レコード会社にとってヒットを出すのは義務であり、期待に応えられない自分はクビになってもしかたないと思った。
「ひのきちゃんは自分の思いどおりにやっていないんじゃない? 俺は独立するから、これからも一緒にやろうよ」
こうやって引き留めたのは五木である。ならば、停滞を吹き飛ばすような大ヒット曲を作ってあげたい。五木は従来の事務所を離れて「五木プロ」を立ち上げ、心機一転の勝負曲が必要とされた。
「僕はもともと演歌畑の人間じゃなかったので、次の曲の作詞に、ふと、ポップスのたかたかしがいいと思ったんです」
ジャズギタリストから作曲家に転身した木村好夫のメロディに、西城秀樹や松崎しげるに書いていたたかたかしの詞を乗せた。それが100万枚近い売上げを記録した「おまえとふたり」(79年)である。ただし、五木自身はこの曲がシングルになるとも思っていなかったという。
「彼の技量からいけば、この曲は80%以下の力で楽々とこなせるやさしい歌。実際、レコーディングも3テイクで終わっていた」
冒頭で岡千秋が言ったように、五木は100点の曲を120点に、ひのきに言わせればC級の楽曲でもA級に持っていける歌唱力を持つ。ただし、あまりにも高度になりすぎると「大衆の支持」とかけ離れてしまう。
「だから三振に終わるかホームランとなるか、そんな歌でいいと思った」
後押ししてくれたのは、レコード会社の総帥だった徳間康快である。サンプル盤を聴いた瞬間に、号令を発した。
「ひのき、これでいい。これでいけ!」
70年代の終わりに蘇った五木は、立て続けに「倖せさがして」(80年3月)、「ふたりの夜明け」(80年8月)と大ヒットを連発。この流れは「しあわせ三部作」と呼ばれ、80年の賞レースに堂々と乗り込む成果を作った。
さてこの年、大賞争いだけでなく、新人賞もかつてない激戦となった。松田聖子、田原俊彦、河合奈保子らが並んだ「黄金の80年組」に、八代と同じ事務所の岩崎良美も名を連ねる。
「私のデビューのお披露目が、八代さんの新宿コマ公演だったんです。八代さんが『今度デビューする良美ちゃん』って紹介してくださって、私が花束を持って円形の舞台に上がるはずが、緊張してまっすぐ歩けなかったですね」
当時は歌番組が全盛の時代である。トップ歌手の八代の後輩であり、さらに岩崎宏美の妹であることは、自身のブッキングにも大きく作用したと感謝する。
やがて秋口から賞レースのシーズンとなり、良美は連日のように「審査」の対象となる。
「正直に言うと、この場から解放されたいと思っていました。本命はトシちゃんか聖子ちゃんかで、自分は獲れない。だけど席に座っているのは、どうしていいのかわからなかった」
戦場にいた者のみが知りうる事実である。