歌謡曲の黄金期である70年代が終わり、そして迎えた1980年──それでもなお、芸能界の中枢は「歌謡曲」にあった。この年、暮れの賞レースは史上まれにみる壮絶な展開となる。歌謡界を代表する五木ひろしと八代亜紀が雌雄を決した「五八戦争」は、今なお、レコード大賞の語り草である‥‥。
「こちらが100点のつもりで書いたものを、あっさり120点に仕立ててしまう。それが五木ひろしという歌い手の凄さでした」
作曲家の岡千秋は、自身も都はるみとのデュエット「浪花恋しぐれ」(83年)を大ヒットさせた歌手でもあるが、ひたすら尊敬の念を抱くのが五木である。
そんな岡が五木に提供した「ふたりの夜明け」は、賞レースの本命とされながら、わずかに及ばなかった。
「あんまり悔しくて、しばらくは浴びるように酒を飲んでもまったく酔えなかったよ」
そして同曲を作詞した吉田旺は、大みそかの授賞式で五木の異様な姿を見る。
「あんなにがっかりした表情の五木君を見たのは初めて。僕も詞を書いた以上は勝たせてあげたかったし、彼も獲りたかったと思う」
吉田は72年に大賞を受賞した「喝采」(ちあきなおみ)を作詞している。本命ではなかったのに逆転を果たしたのは“時の運”が味方していると思った。逆に五木が栄誉を逃したのは、目に見えない何かが足りなかったのだろうか‥‥。
「特に敗れた相手が八代亜紀というのも彼には悔しかったでしょう。同じような下積み時代を過ごした2人でしたから」
五木は65年に「松山まさる」の名でデビューしたが、まったく売れず。以降も改名を繰り返し、ようやくつかんだのが「全日本歌謡選手権」(よみうりテレビ)での10週勝ち抜きと、4つ目の芸名となった「五木ひろし」での出世街道だった。
八代も、五木と同じく「歌謡選手権」の10週勝ち抜きが転機となった。もともと2人は10代の頃から銀座のクラブ歌手として旧知の仲であり、五木のブレイクを誰よりも喜んだのが2つ年下の八代であった。
「1回もらっているんだから今回は私でいいでしょ」
73年に「夜空」でレコ大に輝いた五木に対し、八代は冗談まじりに声をかけた。しかし、日頃は温厚な五木の目が鋭い光を放つ。
「うるさい!」
‥‥こうしてレコード業界のみならず、日本中の隅々まで「五八(ゴッパチ)戦争」という言葉が浸透していく。ともに賞レースの常連であるだけに“真の王者”はどちらかという関心も高かったのだ。
「ファンの方もヒートアップして、私のところに怖い手紙もたくさん来て、父がものすごく心配しました」
八代の記憶は誇張ではなく、当時はレコ大という金看板を巡り、裏に表に激しい駆け引きが行われる。レコ大の中継を立ち上げた砂田実(元TBS)は、こんな“珍事”を口にする。
「暮れが近づくと、審査員のドンだった音楽評論家が『カンパイおじさん』と呼ばれていた。レコード会社や芸能プロのパーティに顔を出し、乾杯の発声をするだけで何十万円かがポケットに転がり込むんだ」
やがて評論家は“利権”に溺れ、自分の一存で大賞も決められるという態度を取るようになる。砂田らTBS側は、この御仁を審査側から外れてもらうことにするのだが──、
「ウワサでは『カンパイおじさん』の権利を、相撲の親方株のように売りに出したと聞いた。皆して『本当に?』と驚いたよ」
それだけレコ大は「巨大な怪物」と化していた。
◆アサヒ芸能12/10発売(12/19号)より