良美は新人賞部門に、八代は大賞部門にノミネートを重ねるうち、思いがけない現象が起きた。会場にはアイドルたちの親衛隊がしのぎを削るが、良美のファンにとって聖子や田原は敵でも、八代は「応援すべきお姉さん」である。
「私のファンの人たちが、八代さんの曲のサビの『雨雨降れ降れ、もっと降れ』を合唱するようになったんですよ。八代さんも野太い声援にニッコリと喜んでいらっしゃいました」
そしてその光景は、八代の手を振りかざすポーズとともに歌番組の花形となっていく。ささいなきっかけは、しかし、大輪の花へと結びつくのである。
そんな八代の「雨の慕情」(80年4月)もまた、五木と同じく“三部作”に数えられた。作詞・阿久悠、作曲・浜圭介、編曲・竜崎孝路というトリオで、前年の「舟唄」(79年5月)に続く第2弾である。
詞を書いた阿久悠は「舟唄」~「雨の慕情」と来て、第3弾の「港町絶唱」(80年9月)でレコード大賞を獲るというプランを描いていた。ではあるが、候補曲となったのは1つ前の「雨の慕情」である。
五木陣営の軍師であるひのきは、そこが勝負の大きな分かれ目だったと後に気づいた。
「賞レースが始まって、マスコミや評論家に『どの曲でエントリーするの?』って聞かれる。ウチは三部作の締めくくりとして『ふたりの夜明け』を持っていった。レコード売上げも、曲のクオリティも十分に勝負できると思ったんです」
当然、八代陣営も「港町絶唱」で来るはずと読んでいた。9月発売というタイミングは暮れに向けて披露する機会も多く、選考には有利となる。ところが、あえて「雨の慕情」に戻ったのはなぜか?
「レコード大賞というのはセールスや芸術性だけじゃない。そこには“仕掛け”という部分も大きく作用する。五木のほうがレコードは売れていたけど、印象としては『雨雨降れ降れ、もっと降れ』の大合唱のほうが強かった」
ひのきは、八代陣営に倣うわけではないが、ラテン歌謡の「倖せさがして」のほうがレース向きだったのではないか‥‥と、わずかに後悔した。勝てると思ったレースに勝てなかったことは、五木を中心とした陣営に「何が何でも!」との気持ちを覚醒させる。
それが84年の「長良川艶歌」で結実し、2度目の戴冠となった。この歌の作曲は「ふたりの夜明け」と同じ岡千秋だが、勝利の美酒は不思議な味だった。
「今回はうれし涙で、また飲んでも飲んでも酔えないって感じでしたね」
こうした激戦は、昭和の終わりまで重ねられ、人々の記憶に植えつけられていった‥‥。