インタビュー翌日に提出された辞職願は、即日受理され、維新の候補者が繰り上げ当選となった。この1年で東国原氏は維新らしさが喪失していく様を目の当たりにしたという。
日本維新の会では、石原慎太郎共同代表(81)をはじめとする旧太陽系議員と、橋下徹共同代表(44)の下に集った議員との対立が報じられている。離党の背景には、この確執があったという。
大阪維新の会では、政党にはいろんな意見があるだろうから、それをぶつけて、熟議して議論を尽くして、最後は多数決で決めましょう。これが、もともと我々が立ち上げた大阪維新の会の文化でした。
ところが、党の最高意思決定機関の8割は、旧太陽系の方たちが占めており、ここで決まったことが政党で決まったことになっています。永田町に長年住んできた、老練で老獪なあの方たちにとって、多数決なんて論外なんですよ。
これが永田町の政治なんだと思いました、旧態依然とした政治だと。いちおう意見を言えよ、あとは総務委員長あるいは、役員・幹事長が引き取って我々が決めるからというのが、永田町の論理でした。
それを壊すために日本維新の会は「維新」だったわけです。そこに期待して票を集めたのに何もできませんでした。
永田町の妖怪たちが、党を牛耳ることを横目で眺めていたわけではないと、東国原氏は語る。去る12月18日には、みんなの党から離党した江田憲司衆議院議員(57)らが「結いの党」を結党した。この動きと、自身の辞任は連動しているというのだ。
みんなの党、維新、民主党の一部で作った「DRYの会」という勉強会がありました。この会は新党立ち上げをイメージした会で、現在では「新世代研究会」になっています。数カ月前からこの会のメンバーには、13年12月に維新が分離・分党しなければ、離れると伝えていました。
新党立ち上げの中心人物が柿沢未途(衆議院議員=42=)さんで、それがみんなの党代表の渡辺喜美(衆議院議員=61=)さんの逆鱗に触れて党を追い出されました。それが「みんな」に火をつけ、江田さんの蜂起につながった。
新党を立ち上げる場合、最初に出た人間が主導権を握れるので、最初に行動しなければならなかったのです。だから、僕は、その前からずっと維新も行動すべきだと主張してきたのですけど、なかなか維新が行動しない。じゃあ、柿沢さんみたいに自分が出ることが刺激になり、あとに続けられればと思って、出たのです。
新党の研究会に加わっていた維新のメンバーは20~30人います。その人間たちは当然、旧太陽と分離しようと思ってやっていますが、現時点で分離・分党できていません。
しかし、維新の分離・分党は共同代表である橋下徹大阪市長への裏切り行為でもある。離党に至るまで、2人の関係が劣悪なものとならなかったのか。
橋下さんのリーダーの資質や期待感は今でも変わっていません。しかし、組んだ相手が悪かった。橋下さんが国会議員として東京にいて、国会議員団に加わっていたら、話は変わっていたと思います。橋下さんには大阪都構想があるので、あと2年は大阪に張りつかないといけないという運命のいたずらもありました。