誰もが知る有名美女の、誰も知らない「本気の叫び」が聞きたい─。創刊以来変わらぬ「週刊アサヒ芸能」の編集方針の骨子である。65年の歴史には目もくらむ美女たちが現れ、読者を鼓舞した。その姿形だけでなく、思わず漏れる本音にも味わいがあった。そんな名言の数々を大公開! 女たちの感情が爆発する時、それは美しい表現になったりもする。噴出したマグマを拾い集めてみよう。
若貴ブームを女将として支えた藤田紀子は、97年に大関・若乃花(当時)の引退報道にブチギレた。
「あの人が流したデマだと思います。あの人? 花田勝治さんですよ」
先代の二子山親方であり、夫(当時)の実兄である。
「あの人は、いまだに自分に力があるんだ、ということを誇示したくて、こんな話を記者の方にリークしたんじゃないでしょうか。それに、あの人とほとんどつきあいがないんですよ。もともと、部屋の合併(旧二子山部屋と旧藤島部屋)には、私は反対でした」
その後、若は引退することなく横綱に昇進する。
大場久美子(61)は79年の「オリンパスOM10」のCMでひと悶着。
「演出家の人と意見がまったく合わなかった。私、半日間のストライキをして現場に行かなかったくらいですから。これに演出家さんが『じゃあ、何もしなくていいからそこに立っていなさい』と言ったんですね。だから私、ニコリともしないで、むしろにらんでいるような目線で」
そんな裏話があって傑作CMが生まれた。
日劇のトップダンサーだった鹿島とも子は、事故で生死の淵をさまよう。82年1月24日、石打スキー場のスノーモービル大会で悲劇は起きた。
「平坦なコースを回ったあと、下のほうに連れていかれました。でもそこは、左曲がりのヘアピンコースですごく危険なところ。15メートルも滑り落ちてしまい、腰から下の感覚がなくなって、脚が吹っ飛んだのかと」
主催者側に7600万円の損害賠償を求めたが、300万円で和解。その後、鹿島は、オウム真理教の洗脳騒動でも話題になった。
歌手の伊藤咲子は同期の城みちると交際したことが話題に。それを同い年の桜田淳子に批判される。
「スタッフの人やファンの人がいて、それを裏切ってはいけないと思うの」
「えっ、なんで? 私は純粋な気持ちでみちるを思っているし、歌は大好きだからファンの人を裏切ったとは思ってないわよ」
当時、そんな会話を再現してくれたものだ。
投資家・中江滋樹との“不適切な関係”疑惑で芸能界を去り、弁護士事務所にいた倉田まり子を直撃したことも。
「私の上司の弁護士が申しますには、倉田まり子として芸能界にいた時代は公人であったかもしれないけど、今はまったくの私人。取材を受ける必要はないと申しております」
災難だったのは、80年に「帰ってこいよ」が大ヒットした松村和子。
「社長にギャラを持ち逃げされ、事務所を移るということを2度体験しました」
きっと帰ってくるんだと~、とはならなかった。
“ロマン映画”草創期のスターだった田中真理は、主演作が次々と摘発される悲運を味わう。
「78年6月に無罪判決が言い渡されましたが、検察側が控訴。東京高裁によって全面無罪が確定したのは80年7月。28歳で、すでに結婚して長女も生まれていました。女優としては裁判の印象が強すぎて仕事も減っていたので、ここで引退することにしました」
同じくロマン映画に転身した畑中葉子も、
「脱いだために飲み屋で『ここで脱げよ』とか『来るなよ』って言われたこともありました」
大映ドラマの常連だった伊藤かずえは、雑誌で見つけた「ヤヌスの鏡」のドラマ化をプロデューサーに提案。
「なあ、かずえ。この前、お前が提案してくれた『ヤヌスの鏡』な、あれをフジテレビでドラマにするから」
「本当ですか? じゃあ、私が主役なんですね!」
答えはノーだったことに伊藤は落胆したという。