東日本大震災から3度目の正月を迎えようとしている福島県。しかし、いまだ第一原発の問題も収束しないまま、人口も震災前から5万人以上も流出したままだ。だがこうした状況下でも、地域のために懸命に奔走する人たちも少なくない。さまざまな思いが去来する中、郷土愛に燃える人々は何を思うのか。まだ傷跡が残る福島を訪ねた。
「故郷・福島の皆さんをはじめ、支えてくれた全ての人に感謝しています。一礼には、これで一区切りという気持ちと今後もよろしくお願いしますという意味を込めました」
去る12月1日の福岡国際マラソンを最後に、現役を引退した佐藤敦之さん(35)は、優勝したケニア出身のマーティン・マサシ(スズキ浜松AC)から遅れること26分、142位でゴールすると、振り返ってコースに深々と頭を下げた。
佐藤さんは福島県の出身。08年の北京オリンピックの男子マラソンに出場するなど、トップランナーとして、日本のマラソン界を牽引してきた。しかし、北京五輪から引退までの5年間は、「栄光と挫折」の連続だった。
引退から1週間後、福島県会津坂下町の自宅で取材に応じた佐藤さんは、引退までの葛藤を口にした。
「引退を決断したのは12年9月頃でした。『そろそろ潮時かな』と。最後の舞台は福岡国際にしました。(北京)五輪出場を決めた思い出のレースですから」
ケガに悩まされる選手人生だった。12年11月の大阪マラソンでは、3位入賞を果たしたものの、右足がしびれるなどの故障が続き思うような走りができなくなった。
しかし、それ以上に、東日本大震災を経験したことで地元への思いが強まっていったことが指導者への道を進むことを後押しした。
「父が転勤族だったので、中学2年生までは県内の各地で過ごしました。被害が甚大だった福島の沿岸部にも小学校時代に住んだことがあります。被災者の中には当時の同級生も数多くいると聞いて、いても立ってもいられませんでした」
中学時代に駅伝で頭角を現した佐藤さんは、福島県立会津高校から早稲田大学に進み、大学時代は箱根駅伝などに出場。卒業後は、実業団の中国電力に入社し、マラソンや駅伝で活躍。ランナーとして充実した選手生活を送っていたやさき、震災が福島を襲ったのだ。
だが、当時住んでいたのは中国電力が本拠を置く広島県。直接手を差し伸べるにはあまりにも遠かった。加えて、1年半後に控えるロンドン五輪出場という目標もあり、すぐに広島を離れるわけにはいかなかった。
自分にできることは何なのか。
自問しつつ悶々とする日々が続いた。そして迎えた夏合宿、場所は地元・福島だった。この合宿が人生の転機となった。
「(所属していた)中国電力が福島県内で合宿を張ったんです。その時、県の陸上関係者から中学生の指導を依頼されました。もちろん喜んで引き受けました。この時、福島に滞在したのは1カ月弱。その期間に複数の学校の練習や合宿に参加しました。しかし、どうしても接する時間が限られる。顔も名前も覚えられないので、彼らの内面の部分まではわからなかった。たった1回こっきり会ってサインを書いてあげるだけで、はたして本当に役に立っているのか。きちんと腰を据えて、取り組まなければいけないのではという思いを強くしました」
翌12年3月、ロンドン五輪の最終選考となったびわ湖毎日マラソンをケガで欠場。五輪の連続出場の夢はかなわなかったが、時間的な余裕はできた。
佐藤さんに迷いはなかった。4月に入り、中国電力に休職を申し入れ、5月に実家のある会津坂下町に練習拠点を移した。地元の中高生らの指導の他に、講演も積極的に引き受けた。県内各地の大会などにもゲストランナーとして参加。福島県民に少しでも元気を与えたい、福島の長距離界の未来を明るくする一助になりたいとの強い思いからだった。そして、現役を引退した今、その先には指導者としての明確な目標がある。
「福島に戻ってきた当初、生徒たちの目指すレベルが思ったより低いと感じました。全国の舞台で戦いたいという子が少なかったんです。私自身もそうでしたが、中学高校時代に高い目標をクリアしてこそ本当の自信が生まれる。震災の影響もあったのかもしれませんが、福島にも強くなりたいと思う子はたくさんいるはず。そういう子たちの背中を押してやることが、私にできる復興支援だと思っています」
休職期間の終わる14年3月までは会津坂下町を拠点に活動。その後は、本格的に指導者としての道を歩むことになるという。