13年3月、福島第一原発から20キロ圏内の小高区と原町区の一部を擁する福島県南相馬市に、一人の医師が移住してきた。富山県高岡市の済生会高岡病院で副院長兼内科部長を務めていた中林智之医師(60)だ。
中林医師は、過去に福島県を訪れたのは数回程度。南相馬には足を踏み入れたことすらなかった。だが、以前から“ある思い”を心の中に秘めていた。
「もともと、母校の自治医科大学は、医療に恵まれない地域の医療確保を目的に設立された学校。それだけに医者になった当初から『最後の10年はへき地医療に従事したい』と漠然と考えていました」
そんなやさきに起きたのが「3.11」だった。あまりにも壮絶な現実を前に中林医師の心もかき乱された。
震災時、富山県は病院をチームごとに分けて医療班を編成。1週間交代で被災地域に入って活動を行った。中林医師も県の要請で、岩手県釜石市での活動に参加したのだった。
「震災から2週間後に釜石に入りました。当時、現地はまだガレキの山でした。私たちは海上保安庁の巡視船に宿泊させてもらい、入浴や食事もできたからまだよかったけど、地元の看護師さんの中には、避難所暮らしの人もいた。そういった現状を目の当たりにして、『へき地ならどこでもいいというわけにはいかないな』と思うようになりました」
しかし、富山県も慢性的な医師不足に悩まされていた。簡単に投げ出すわけにはいかなかった。被災地から富山に戻ると、多忙な勤務が待ち受けていた。
気がつけば、震災から1年以上が経過していた。自宅でいつものように新聞を読むと、気になる記事を発見した。その内容は、南相馬にあった旧原町中央産婦人科医院で院長を務めていた高橋亨平氏が、末期ガンを患いながらも地域医療に身をささげている現場の様子を伝えたものだった。
「その記事には、一緒に病院を続けてくれる医師を探していることも記されていたので、12年10月、南相馬に足を運んで、高橋先生に直接お目にかかりました。ガンの治療中でありながら、とても元気なご様子だったので驚きました。震災後の南相馬における医療の現状や、除染活動に取り組んでおられる話などをうかがいました」
中林医師の気持ちはすでに固まっていた。幸い、富山での後任の医師のメドも立った。高橋氏から「一緒に仕事をしよう」という返事をもらい、中林さんは南相馬市に移住することを決意した。
しかし、2人が共に働くことはかなわなかった。13年1月、高橋氏が他界。それでも中林さんの決意は変わらず、3月から、原町中央産婦人科医院改め南相馬中央医院の院長に就任した。
富山では、循環器内科で心臓や血管の治療を担当していた。しかし、現在の勤務先は元産婦人科。今でも女性の受診者が多い。しかも、被災地特有の症状を訴える人も多く、困惑する時期もあったという。
「患者さんの中には、原発や汚染水のニュースを見るたびに動悸が激しくなり眠れなくなって体調を崩すという人が結構いるんです。そういう方々に安心して来てもらえる病院であり続けられればと思っています」
中林医師は現在、病院の敷地内にある寮で暮らしている。いまだ仮設住宅暮らしを余儀なくされている人もいる南相馬では、転入者の新居探しはなおさら困難だった。
「最近ようやくメドがついたので、春には高岡から家族も呼べます。あと何年、現役でいられるかはわかりませんが、医者としてはここを最後の仕事場にするつもりです」
高橋氏の遺志を継いだ中林医師。地域医療の再生にかける思いこそが、復興につながるに違いない。