お茶の間にお披露目されるや、瞬く間に全国へと人気が波及、普通の女子高生&女子大生がかつてない社会現象を巻き起こした「おニャン子クラブ」。常に人気NO.1を争った不動のフロントメンバー新田恵利(53)が、その熱狂を振り返る。
「まるで台風と同じ。目の中にいた私たちは、周りがどれだけ盛り上がっていたのか全くわかっていませんでした」
高校生当時、「日給5千円」という文言に惹かれバイト感覚で出演を決めた「夕やけニャンニャン」(85~87年、フジテレビ系)。放送開始から3カ月後の7月、番組内でデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」のリリースイベントを告知したが、
「池袋サンシャイン広場でイベントして、その様子を生放送する予定でしたが、当日、控室にスタッフが大慌てで『すぐにフジテレビに戻ろう。イベントは中止だ』と言ってきたのです。私たちはワケがわからぬまま車に乗せられました」
真相は翌日以降、報道で知った。現場には収容人数を優に超えるファンが殺到し、混乱をきたしていた。この異常事態にスタッフは「人が集まりすぎて危険」だと中止を決断。
「それからは、当時アイドルの主流だったリリースイベントはやっていません。『出せば売れる』状態だったからか、スタッフが努力しなかったのかも(笑)」
「セーラー服──」でオリコン24.7万枚を記録すると、グループ曲、各メンバーのソロ曲、ユニット曲を毎月2、3作ほどコンスタントにリリースし、最盛期の86年にはオリコン年間52週のうち、36週でおニャン子関連の楽曲が1位を独占。スタッフが努力せずとも、関連楽曲の売り上げは、101.5億円を記録したのだ。
それは楽曲だけではなかった。写真集「ぜ~んぶおニャン子」(フジテレビ出版)が50万部を売り上げるなど、各メディアをこぞって席捲した。
「でも、私たちの歌唱印税は全メンバーで割るので、雀の涙ほど。スタッフの親心か、ソロデビュー組とそうでないメンバーで差が出ないよう、ソロ曲でコーラスを担当させたりして、みんなに歌唱印税が入るようにしていたんです。
ある時、持ち物撮影企画があり、スタッフの前で財布の中身を確認すると、15円しか入っていなくて、『え! これだけ!?』と自分でも自分にびっくりしたことがありました」
高校生らしい懐事情だった一方で、ファンからの熱い支持に胸は躍っていた。
「ファンレターは毎週金曜日、ダンボール1箱にいっぱい。自宅に持ち帰り、冷蔵庫も入るくらいの大きすぎるダンボールの中に保管していました。札束風呂ならぬ、ファンレター風呂ができそうな勢い(笑)」
ただ、過熱する人気のせいで、学ランの集団に怖い思いをしたことがあり、人通りの多い場所を避けていたという。
「出待ちの人数も多くて、番組終了後に私たちが帰宅のタクシーに乗ると、尾行の原付バイクが十何台も続いていましたね。ある時、大学生のお姉さんたちが『原宿に行ったらとんでもないことになった。人だかりに囲まれて動けなくなった』と話していて『そりゃそうだよ!』と思わずツッコミそうになりました」
ソロデビュー曲「冬のオペラグラス」(86年)が3週連続オリコン1位を獲得するなど、ソロ活動も順調。86年冬、中野サンプラザを皮切りに全国を回ったファーストコンサートでは、追加公演として日本武道館での開催が決まった。
「さすがの私も『ひとりで武道館に!? すごい!』と感動しました。そういえば、ある公演日の前日に、パーソナリティを務めていたラジオ番組で『明日のコンサートは長靴で来てくれたらうれしいな』と、いたずら心で告知したことがあったんです。カンカン照りの当日、本当にファンの皆さんが長靴で来てくれて、無邪気に喜んだなあ」
当時と変わらぬこの屈託のない笑顔が、次々に記録を塗り替える原動力となったのだ。