博多に次ぐ福岡の音楽発信地、それが「久留米」である。松田聖子、石橋凌、鮎川誠‥‥そして83年にチェッカーズが飛び出した。単にヒット曲が多かっただけでなく、彼らは「チェッカーズ以降」と表現されるほど若者文化を大きく変えた。そこには、一流の仕掛人たちが緻密な戦略を練っていたのである。
「武田鉄矢に聞いたことがあるよ。まだ小学生だった藤井フミヤが下駄をはいて、ライブ喫茶『照和』に演奏を見に来たって」
福岡・テレビ西日本の事業部で博多発のアーティストを応援してきた藤井伊九蔵が振り返る。あいにく、小学生を招き入れるわけにはいかず、武田たちが帰るように諭したそうだ。
久留米に住む小学生が向うには、博多という街は決して近くはない。それでも「音楽」に対する無垢な情熱が幼い旅を決意させたようだ。
やがてフミヤは久留米の街で武内享や高杢禎彦と出会い、80年に「チェッカーズ」を結成。翌81年にはヤマハ主催のLMCジュニア部門で最優秀賞を獲得する。キャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)の宣伝部にいた吉田就彦は、ここで目にしたフミヤに強烈な印象を持つ。
「とにかく女の子にモテそうだなって。それと中音域から高音に一気に抜ける声は、いわゆる“売れる声”の響きを感じた」
いったんデビューの話もあったが、藤井尚之や徳永善也がまだ高校生だったため、晴れて7人が上京したのは83年の春。ヤマハの寮が彼らに与えられた最初の棲み家となった。
吉田は宣伝から制作に異動になったこともあり、ディレクターとして彼らのデビューに備える。1つの教訓として、やはり福岡出身の陣内孝則がいた「ザ・ロッカーズ」の失敗があった。
「陣内君という素晴らしい個性がありながら、まったく売れなかった。それでチェッカーズを担当する時に、ただ音楽を作るだけではない“仕掛け”が重要と思ったんです」
ここからプロジェクトチームとしての〈チェッカーズ〉が始動する。サウンド面は作曲家・芹澤廣明や作詞家・売野雅勇を中心に、ビジュアル面はエディターの秋山道男が中心となり、2つのチームが競い合うように作り上げてゆく。
吉田が所属事務所のヤマハにいくつもの企画書を出すと、かつてヤマハを相手に提案した者はいなかったと言われたそうである。
基本のコンセプトは、当時、人気があった「シブがき隊」と「横浜銀蠅」のど真ん中をぶち抜くこと。
「片や王道のジャニーズアイドルで、一方は硬派な不良スタイル。その第三極として、イギリスのニューウェーブの波を持つ『明るい不良』という形にしたい」
とはいえ、フミヤたちが久留米で続けてきたのは、革ジャンにリーゼントのロカビリースタイル。わかりやすく言ってしまえば、アメリカの不良である。
「そのままやったら、銀蠅の二番手になってしまう。いかに自分たちの価値観を高めていくかと説得しました」
吉田らスタッフは、7人の久留米での活動を全否定していたわけではない。毎週のようにダンスパーティを開いていたというアメリカ映画さながらの青春劇は、むしろ、世の中に伝えていきたいとさえ思った。
そしてチェッカーズにつけられたキャッチフレーズは〈退屈退治〉という遊び心である──。
◆アサヒ芸能1/28発売(2/6号)より