売野はメンバーの1人1人が、芹澤の厳しい指導を受けた場面をたびたび見ている。
「メンバーは皆、芹澤先生と呼んでいたし、ギターだけじゃなくドラムでも『ここはこうやって叩け』と手取り足取りでした」
売野は2曲目の「涙のリクエスト」(84年1月)、3曲目の「哀しくてジェラシー」(84年5月)、4曲目の「星屑のステージ」(84年8月)までをデビュー前の段階で芹澤と完成させている。そして「涙のリクエスト」は、発売前の段階から手応えが違った。
「ライブハウスで演奏すると、異様に盛り上がっていた。芹澤さんと『これは当たる』と言い合ったね」
実際、発売からすぐに火がつき、さらには不発のデビュー曲まで引っ張り上げられ、3曲目も含めて「3作同時ベストテン入り」という快挙も達成する。
これだけ当たった「涙のリクエスト」だが、売野の詞が1時間45分、芹澤の曲が15分で、2人合わせてわずか2時間の早業である。4作目の「星屑のステージ」も同様の速さだが、この曲を下敷きにして吉幾三は「酒よ」というヒット作に転換。ともすればパクリ疑惑になりそうだが、むしろ芹澤は「名誉なこと」と喜んでいたという。
それでも5作目の「ジュリアに傷心〈ハートブレイク〉」(84年11月)は、売野が5度の書き直しを命じられるほど“難産”となった。
「ちょうどこの曲でチェッカーズがヤマハを離れ、自分たちの個人事務所を作った。その1作目だから芹澤さんも気合いが入っていましたね」
立て続けにチェッカーズはチャートの1位記録を重ね、街には同じようなファッションに身を包んだ若者があふれた。男の子たちが初めて「オシャレ」に目覚めた瞬間である。
それでも彼ら自身は気取ることなく、テレビでは7人が久留米なまりで楽しげに話している。ディレクターの吉田は、いつも「アイドルでも100%、ミュージシャンでも100%であれ」と要求した。
「3カ月に1枚のシングルをリリースし、個々に楽器の練習も曲作りも手を抜かずにやれと言っていました。大変なスケジュールだったけど、そこは九州男児だから誰も音を上げない。いや、彼ら自体が自分たちの活動が楽しくて仕方がなかったんだと思う」
チェッカーズとしての活動は約10年に及び、以来、再結成待望論も実現する気配はない。それでも「郷土愛」は、フミヤを筆頭に不変であるらしい。
TNCを退職して広告業に関わった藤井伊九蔵は、09年に久留米駅にできた高層マンションのCMをフミヤに依頼したことがある。
「二つ返事でOKでしたよ。出演だけじゃなく、実際、親のためにと最上階を購入してくれましたから」
郷土愛とファンへの思いを表すなら、やはり「チェッカーズ」の6文字こそがふさわしい──。