幕末、薩長ら勤王の志士を相手に、大立ち回りを演じ続けた男装の女美剣士がいた。名前は中沢琴。当時の女性としては身長170センチ以上と大柄で、宝塚の男役トップスターのごとく、整った容姿だった。男集団の中で目立つのを避けるために男装していたが、逆に周囲の女性たちからは「美剣士」として騒がれ、困惑していたという。
当時の上野国利根郡利根村(現在の群馬県)に生まれた琴は、幼少の頃から父親が開いていた、天狗剣法とも呼ばれた法神流の剣術道場で学び、薙刀(なぎなた)の腕は、師である父をしのいでいたと伝えられている。
佐幕思想があったのか、琴は兄・貞雄と共に、希代の策士・清河八郎が募った「浪士隊」に、女性として唯一参加。後の新選組局長・近藤勇、副長・土方歳三らと京都に上った。
その後、「浪士隊」は分裂し、京都に残った者は会津藩預かりの「新選組」を結成。江戸に戻った者は、深川の冬木弁天堂で庄内藩預かりの「新徴組」として、勤王の志士たちとバトルを繰り広げていく。
琴はその「新徴組」にもやはり、唯一の女性隊員として参加。慶応3年12月25日(現在でいう1868年1月19日)には、江戸・三田にある薩摩藩の江戸藩邸を放火によって焼失させた「江戸薩摩藩邸の焼討事件」のメンバーにも名を連ねた。
この事件は戊辰戦争を引き起こすきっかけとなっただけに、琴は歴史を動かした一人になったと言っていいだろう。
その後は庄内(今の山形)藩士らとともに、新政府軍相手の庄内戦争にも加わった。庄内戦争では、官軍十数人を相手に切り抜けたというエピソードも残っている。
彼女は最終的に明治7年(1874年)、故郷の利根郡に戻った。当時、30歳を越えていたが、その美貌は衰えておらず、求婚者が殺到したという。だが、自分より強い者と結婚すると決めていたため、結局はそんな強者は現れず、生涯独身を貫いた。
琴は江戸、明治、大正、昭和の時代を駆け抜け、この世を去ったのはなんと、昭和2年(1927年)10月12日のことだった。
(道嶋慶)