いつの時代も宮仕えはつらい。昇進と引き替えに、命まで投げ出した武将がいる。鎌倉幕府の最後の執権ともいわれる北条貞将の在位は三日天下ならぬ、わずか1日だった。
140年以上も続いた鎌倉幕府では、9人の将軍が存在した。当初は初代頼朝、2代頼家、3代実朝と源氏将軍が続いたが、その後は公家の頂点である近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家の中から選ばれた摂家将軍の時代となった。後嵯峨天皇の次男だった宗尊親王が6代将軍となった以降は、最後の9代将軍盛邦親王まで皇族が将軍の座に就いていた。
4代将軍以降はお飾りで、事実上の幕府の最高権力者=執権として政務をつかさどる北条氏の傀儡にすぎない。
北条氏一門の嫡流は「得宗」と呼ばれている。この「得宗」が必ずしも執権になるとは限らない。
だが、頼朝の正妻・北条政子の父・時政が初代執権となって以降、16代守時まで全て、北条氏が世襲した。守時は倒幕を掲げる新田義貞軍との戦い、巨福呂坂の攻防で敗れ、元弘三年5月18日(1333年6月30日)、洲崎(現在の鎌倉市)付近で自刃して果てた。享年39だったという。
守時の死後、空席となっていた執権の座に就いたとされる人物が、15代執権北条貞顕の嫡子貞将である。貞将は別名金沢(かねさわ)貞将とも呼ばれた武将で、巨福呂坂の攻防にも参加していた。だが敗走し、その後は北条一族が立てこもる東勝寺に向かったという。
軍記物として知られる「太平記」の巻10「大仏貞直金沢貞将討死事」によると、この時に東勝寺に立てこもっていた得宗・北条高時から恩賞を与えられた記述がある。それが状況から、17代執権への就任だったと推察されている。
元和三年5月22日(1333年7月4日)、就任を命じる御教書を受け取り「冥土への土産になる」と感激した貞将はそのまま新田軍へ突撃し、嫡男・忠時らとともに、壮絶な討死を遂げた(写真は貞将が討死した東勝寺跡)。
その際、「太平記」では、御教書の裏には「私の100年ある命を捨てて(高時)公の1日の恩に報いたる」という旨の「棄我百年命報公一日恩」と書き記し、鎧の胴に入れていたという。
鎌倉幕府滅亡とともに北条家は滅んでしまい、「太平記」以外には、貞将に恩賞を与えられた事実を示す資料は残っていない。だが本当ならば、貞将にとっては人生最良の1日だったかもしれない。
(道嶋慶)