「本当のことを申し上げます。私が今、侵されている病気の名前、病名は、ガンです」
都内の記者会見場で無数のフラッシュを浴びながら、人気司会者の逸見政孝氏がこんな衝撃告白をしたのは、1993年9月6日、午後3時過ぎだった。
当時、ガンは不治の病と言われた。ガン=死という意味合いもあって、多くの視聴者がこの言葉に釘付けになったのである。
人間ドックで逸見氏の体に「初期の胃ガン」が見つかったのは、この年の1月。手術により、それが悪性度の高い進行性ガンであると判明した。5月を過ぎた頃には腹の手術創が化膿したように隆起していたとされるが、逸見氏と親しかったテレビ関係者は時を経て、私の取材にこう答えている。
「まだ本人への告知が一般的ではない時代。主治医も逸見さんや家族に『早期発見』だと説明していたんですね。そのため、入院した逸見さんも十二指腸潰瘍と偽り、1カ月休養。胃の4分の3を摘出する手術を受けて仕事に復帰したのですが、根本的な治療が施されたわけでもないため、数カ月後にガンが再発した。それでも夏休みを利用して手術を受けるなどして、複数のレギュラー番組をこなしていたんです」
ところが回復するどころか、容体は悪化するばかり。しかも「別の医師に診てもらった方がいい」という家族の言葉に対し、逸見氏は「ガンを見つけてくれた先生に失礼だ!」と耳を貸そうとしない。最後は妻の晴恵さんが土下座して、9月3日の朝、東京女子医大病院を来訪。「進行性のスキルス胃ガン」と告げられることになる。
会見の前夜、逸見氏は1人自室で、話す内容や構成を繰り返し熟考したというが、前出の関係者が振り返る。
「とにかく本人としては、臆測で記事を書かれるのは本意でない、という思いがあったのでしょうね。ただ、命の期限を宣告された人間が、自分自身のことをあれだけ客観的に語れるとは…。あの精神力には本当に驚かされました」
会見の終了直前、「生還してください」という報道陣からのエールに、「闘いに行ってきます」と応じた逸見氏。だが、そんな思いも天には届かず、3カ月後の12月5日、家族に見守られながら静かに息を引き取った。享年48。
逸見氏が命を懸けて行ったこの会見により、まだ一般的でなかった「セカンドオピニオン」が世間に広がるきっかけになったことは、紛れもない事実である。まさに、ガンという病気に対する世間の認識を大きく変える記者会見だったのだ。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。