沢田研二が共演者の萩原健一、現夫人である田中裕子らとともに、松竹映画「カポネ大いに泣く」の舞台挨拶会見に臨んだのは、1985年2月16日だった。
無精ヒゲにスーツ姿で壇上に登った沢田は、マイクが向けられると突然、「ア~マ、ポ~ラ」と歌い出し、続けて、
「最近、人前で歌っていないので、舞台に上がるとつい口に出ちゃうんです。たまにはステージに立ちたいですねぇ。仕事がないものですから、(無精ヒゲは)生やしっぱなし」
そんな冗談とも本気ともとれない発言で、会場を驚かせたものだ。
ただ、その時はまだ、裕子夫人との関係はマスコミに知られることもなく、後に写真誌により、2人が横浜市内で暮らす様子が報じられ、各社の取材合戦が始まることになった。
そんな沢田が京都府総合見本市会館でのコンサート中、ステージから落下。全治2カ月の重傷を負い、京都市内の病院に緊急入院したことがあった。沢田がエミ夫人と正式離婚した2カ月後の1987年3月のことだ。
当然のことながら病院関係者には箝口令が敷かれ、マスコミの取材は全てシャットアウト。ところが数日後に、関係者を通じて「ザ・タイガースのメンバーが揃って見舞いに行く」という情報をキャッチした。
そこで私は、沢田が入院する京都市内の病院で張り込みをスタート。総合病院なのでロビーは人の出入りが多く、こまめに席を移動していれば、さほど目立つことはない。
張り込み初日、メンバーたちは現れずじまい。2日目も動きはなく、ただ時間だけが流れていく。3日目、さすがに病院職員も不審に思ったのだろう。私に声をかけてくる。張り込みをしていれば、不審者扱いされるのは茶飯事。「面会です」と言い続け、どうにかやり過ごした。だが、夕方になってもメンバーは現れない。あと5分で面会終了の午後7時になろうとしていた。
「クソッ、ガセネタだったか…」。そう思った瞬間、正面玄関のドアが開き、メンバー3人が並んで入ってきた。先頭を歩く岸部四郎に次いで岸部一徳、その後ろには森本太郎の姿もある。
彼らをやり過ごし、私は再びソファーに腰をかけた。30分ほどして見舞いを終え、ロビーに姿を見せた3人を直撃する。立ち話ではあったが、入院中の沢田の様子を聞くことができた。
京都に入ってから3日目。これから東京に戻って、原稿締め切りだ。玄関先でタクシーに乗り、煙草に火をつける。するとラジオから流れてきたのが、沢田が歌う新曲「灰とダイヤモンド」だった。このなんとも出来すぎたシチュエーションに、思わず苦笑いしたことは言うまでもない。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。