「まだ実感みたいのはないんですけど、これから頑張って育てていきたいと思います。(男の子と聞いて)別にどちらがほしいとか、特別なものはなかったものですから…。ただ、元気にわ~と泣いたので、よかったなぁ。と思いました」
1984年5月6日。都内のホテルで夫・三浦友和とともに出産会見を開いた百恵さん。
とはいえ、私が芸能記者になった時、彼女はすでに引退していたため、「歌う山口百恵」を見たのはテレビ画面でだけ。しかも直接対面したのは、たった一度である。
当時、どこの編集部にも「百恵番」の記者がいた。もちろん彼女が特別な存在だったせいもある。ただ駆け出しの私にしてみると、アンタッチャブルな存在だったのである。
そんなある日、「百恵さん」取材に援軍として駆り出された。忘れもしない1989年4月12日。その日は夫妻の長男、祐太朗(当時4歳。現在は俳優・歌手)の、私立幼稚園への入園式。三浦邸から幼稚園までは徒歩15分ほどの距離だが、移動は車になると予想され、私も「にわかカメラマン」のひとりとして現場に出されることになったのだ。
当日の配置場所は、自宅前と幼稚園前の2カ所。「ま、何が起こるかわからないからさ。とりあえず、幼稚園の周辺で待機していてよ」と、デスクからは指示を受けていた。
午前8時30分、入園式開始2時間前にもかかわらず、自宅前、幼稚園前ともに50人を超える報道関係者が集まり、その数は時間の経過とともに、どんどん増えていく。このままでは大混乱になることは明らかだった。
通常、混乱を避けるため、輪番制の幹事社が取材相手と交渉し、どこかで折り合いをつけることが多い。この日の幹事社はTBS。ところが、交渉は難航。そのまま時間切れを迎える。
午前9時15分過ぎ、夫妻と祐太朗を乗せた、事務所スタッフが運転するシルバーのギャランが、自宅の駐車場から出てきた。瞬間、100機は並んだカメラの放列から一斉に閃光が放たれる。車窓にはフィルムが張られ、中は見えない。だが、そんなことはお構いなし。取り囲んだカメラマンたちは、とにかくシャッターを切りまくる。
車は国立駅から続く富士見通りに入り、幼稚園から300メートルほど離れた五差路の信号で停車。すると、追跡車から飛び降りたひとりのカメラマンが、フロントガラス越しにシャッターを切った。それを合図に、待機していたカメラマンたちが車を取り囲み、一斉にストロボを焚き始める。けたたましいクラクションの音ともに、三浦がドアを開けて叫んだ。
「危ないから、どいてくれ!」
これをカメラマンは好機とみたのだろう。今度はドアの隙間からカメラを突っ込み、母子に向けて連写。激昂した三浦がカメラを取り上げ「返せ」「返さない」の押し問答が続く中、三浦の右拳がカメラマンの首筋に炸裂した。
その時だった。車外に出た百恵さんが、涙を溜めながら叫んだ。
「やめて下さい! なんだと思っているんですか! 子供が怖がっているんです。やめてって、言ったでしょ!」
そう言うや、百恵さんの平手はカメラマンの頬を捉えていた。信号が赤から青へ2回変わる、わずか2分間ほどの出来事だった。
その後、車は幼稚園に到着したが、ここにも100人超の報道陣。事務所スタッフとの間で小競り合いが起こったことで、親子は幼稚園前でUターンせざるをえなかった。
入園式を欠席し、当然ながら記者会見もキャンセル。周辺住民からの通報で警察が駆けつける大騒ぎになり、ただ後味が悪い、お互いに何ひとつ得るものがない不毛な1日が終わったのである。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。