1985年3月19日、私は東京・元赤坂の明治記念館で行われた、夏目雅子の病状に関する報告会見の場にいた。
夏目はこの年の2月、伊集院静氏との結婚後初仕事となる西武劇場(渋谷)での舞台「愚かな女」に出演中に極度の貧血を訴え、緊急入院。だが、医師による正式な病名の発表がないこと、さらに家族以外は面会謝絶の絶対安静状態ということもあり、「重病説」のみならず「危篤説」など、様々な憶測が流れていた。
4週間後のこの日の会見は、エスカレートする噂を拭うべく行われたものだったが、肝心の医師の姿はなく、出席したのは夫の伊集院氏、夏目の所属事務所社長、マネージャーの3名のみ。しかも、病状を「膵臓障害」とするも、診断書などが公開されなかったことで、なんとも説得力に欠ける会見となってしまった。
しかし、のちに発覚した病名は「急性骨髄性白血病」。入院以来209日、一日も欠かさず付き添った伊集院氏や母・スエさんの願いも届かず、夏目が27年という短い生涯を終えたのは、9月11日午前10時16分のことだった。
夏目は化学療法の効果もあって一時は回復に向かい、7月には白血病は寛解したかに見えていたというが、慶応大学病院関係者によれば、
「再び病状が悪化し、9月8日夜に急変。担当医らの懸命な手当もあって、一旦は持ち直したのですが、しばらくして意識不明の状態に陥り、そのまま眠るように亡くなったと聞いています。雅子さんには最期まで病名は告げられなかったようですが、どんな辛い治療にも『痛い』『苦しい』といった弱音を吐かず、病院内でも模範的な患者さんとして有名でした。本当に残念でなりません」
実は芸能界入りに大反対だった母・スエさんはそれまで、彼女の出演作品を見たことがなかったという。だが入院中の病室には、2人揃って彼女の主演作を鑑賞する姿があった。
夏目が亡くなって1年後の9月11日、東京・新宿区の日蓮宗浄風会本部では「偲ぶ会」が行われていた。彼女が好きだった映画「ある愛の詩」などのメロディーが流れる中、会見に及んだ長男・一男氏が「昨年まで雅子はまだ生きていたのですが、この時間はこの世にいなくて…」と語ると、そばにいたスエさんは「やめて! まだ生きているの、やめて!」と泣き崩れた。
わずか1年では癒えるはずもない、最愛の娘を失った母の姿に、胸が痛くなった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。