「家族とわれわれと、みんなで小さなケーキを作り、本人が『鍋が食べたい』というので鍋パーティーをやりました。『自分で作りたい』と水餃子をふるまってくれてね。8月中は、食欲も旺盛だったんですが…。亡くなる一週間前の週末も、本当は帰れる予定だった。ところが水が溜まり始め、肺炎を起こしたということでした。痛くて痛くて息もできなかったほどで…。風邪による合併症です」
2005年11月6日、急性骨髄性白血病のため、38歳の若さでこの世を去った本田美奈子。
2日後の8日、通夜を終えた本田の所属事務所社長で、彼女の育ての親でもある高杉啓治社長は、そう言って唇をかんだ。
アイドルから本格的なミュージカル女優に転身、大活躍していた彼女に病魔が襲いかかったのは、この年の1月である。風邪のようなだるさが続き、病院で検査してみると、なんと「血液のガン」である白血病と判明したのである。
本田にとってこの年は、芸能生活20年目という節目。3月からは東京帝劇で「レ・ミゼラブル」、5月には青山劇場で「クラウディア」、6月にはNHK大阪ホールと、公演が目白押し。秋には記念アルバムの発売も予定されていた。そんな矢先の衝撃──。
「退院したら、20周年をどうやってやろう、あれもしよう、これもしようと、そんな気持ちが自分への励ましになっていたんですが…」
高杉氏がそう語ったように、本田はただただ仕事への復帰を夢見ながら、辛い治療に懸命に耐えていたという。
白血病になると抵抗力が極度に弱まり、他の病気に感染しやすくなるめ、無菌室での入院が続いていた。一時、ガン細胞は5%以下にまで激減。無菌室から一般病棟へと移ると、5月には臍帯血移植手術を受けて好転。7月30日には一時退院が許され、翌31日の誕生日を自宅で迎えることもできた。
しかし──。9月7日に再入院。10月末には容体が急変した。
そして11月6日。痛みから解き放たれた彼女は、同時に「歌」という生きがいも奪われることになってしまった。
私は生前、一度だけ本田を取材したことがある。彼女が「MINAKO with WILD CATS」なるバンドを結成した時のことだ。
アイドルからの脱皮を試行錯誤していたのだろう。「自分が変わっていくことが面白くて仕方がない」と、熱く語ってくれたことを覚えている。
葬儀の際、彼女の遺影にはカレンダー用として前年に撮影された写真が用いられていた。頬に手をやり微笑みかける、そのアイドル然とした表情は、天使のように輝いて見えた。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。