田園都市線の二子玉川駅から徒歩10分ほどにある「報徳寺」。山門の傍には手を後ろに組んで歌うおさげ髪の少女の石像があり、そこには「テネシー・ワルツ」の音符が刻まれている。45年の生涯、この曲を歌い続けてきた江利チエミは今、この寺の奥にある墓地で静かに眠っている。
急死の第一報が消防本部に届いたのは1982年2月13日、午後3時。彼女はこの日、午後4時10分の羽田発の飛行機で北海道へ向かうことになっていた。女性マネージャーが自宅マンションへ迎えに行くが、一向に返事がない。そこで合鍵を持つ従妹を呼んで部屋に入ると、赤いブラウス姿のまま、寝室で倒れていたのである。
シーツ一面に血の混じった吐瀉物があったことから、救急隊員が人工呼吸を施した。しかし呼吸が戻ることはなく、検視の結果、死因は脳卒中により吐寫物が気管に詰まった窒息と判明した。
江利は美空ひばり、雪村いづみと共に昭和歌謡界を牽引してきた歌姫だった。
私生活では22歳の時に、高倉健と結婚。高倉を「ダーリン」と呼ぶ夫婦の仲睦まじさは、世間の誰もがうらやむほどだった。
だが、私生活での幸せは長くは続かず、1970年1月、世田谷区の自宅が火事で全焼。妊娠高血圧症候群による中絶も経験した。31歳の時にはポリープのため、声が出なくなったこともある。
さらには、姉が事務所の金を持ち逃げして失踪。家を担保に10億円以上もの借金をしていたことが発覚し、彼女は「愛する夫に迷惑はかけられない」と、高倉との離婚を決断。しかし、その後に彼女を待ち受けていたのは、借金返済と酒に溺れる日々だったのである。
江利の死から7年後の、1988年2月13日。東京・目白にある「椿山荘」では、彼女の7回忌法要と、「江利チエミを偲ぶ会」が行われていた。高倉が訪れるかもしれない。そう考えた私は「偲ぶ会」に、ファンのひとりとして出席した。
だが、法要にも偲ぶ会にも、かつて江利が「ダーリン」と呼んだ高倉の姿はない。偲ぶ会では、ふたりの結婚当時の写真やハワイへの新婚旅行の映像が映し出され、最後に全員で江利の「新妻に捧げる歌」を合唱して幕が閉じた。
終了後、記者会見に応じた清川虹子は、
「実は健さんが離婚会見をしてハワイに行った後、チーちゃんも追いかけて行ってね。ハワイでふたりが会って『時期が来たらまた一緒に暮らそう』って…。チーちゃんはずっとそれを楽しみにしていてね。健さんはチーちゃんが一生のうちでただひとり、本当に惚れた男だったから」
そう語ると、大粒の涙をこぼした。
そんな高倉が旅立ったのは、2014年11月。高倉との約束を最後まで信じ、復縁を待ち望んでいたという江利。それは、彼女の望みを叶えた瞬間だったのかもしれない。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。