「ウォール街を一緒に歩いていて、色々教えてもらっているうちに、彼がとても頼もしく思えて、急に異性として意識させられたんです。2歳年下だし、弟みたいに思っていたので、いや~、まいったなぁ、って…」
1991年1月17日、都内で結婚報告会見を開いた松坂慶子(当時38歳)は、こう言ってはにかんだ。当時、松坂は俳優やカメラマン、有名映画監督など、数多くの男性との浮名を流し、芸能マスコミ関係者の間からは「恋多き女優」と呼ばれていたものだ。
そんな彼女が、ニューヨーク在住のジャズ・ギタリスト、高内春彦氏(当時36歳)と出会ったのは、4年前の冬。ニューヨークに遊びに来た彼女を、高内氏がたまたま案内したことがきっかけだった。高内氏は松坂のことをよく知らず、松坂にはそれがかえって新鮮に映ったようだ。
国際電話や手紙で交際をスタートさせた2人は、91年1月2日、ニューヨークの市役所にある教会で、2人だけの結婚式を挙げた。驚くことに、かかった費用はわずか5ドルだったという。会見で松坂は、
「今まで虚像は作ってきましたが、彼に会い、女として生きてこなかった自分に気付きました」
として、しばらくは東京とニューヨークでの別居生活が続くことに対し、
「お互い、2週間以上は離れないようにしようね、と約束した」
ところが、2人がニューヨークで生活を始めて2年が過ぎた時、衝撃的な事件が起こる。松坂の父・英明氏(当時70歳)から娘への「絶縁宣言」だった。
英明氏は、業界では有名なステージパパだった。しかし、松坂が結婚を機に個人事務所を閉鎖したことで、英明氏がワイドショーに、
「あの男と出会って、慶子は変わった。私たちは使い古されたスリッパのように捨てられました」
などとブチまけたことで、大騒ぎになったのだ。
私が当時、東京・世田谷区内にある松坂の実家を訪ねると、玄関先にいる英明さんに出くわした。
──こんにちは。何をされていたんですか。
「見ればわかるでしょ!(慶子の)表札を消しているんだ。ここにいない人間の名前はいらないから」
──お父さんがテレビで告白したことに対して、娘さんからは何か連絡はありましたか。
「ないです。達者で暮らして下さい。もう家には戻りません、と言って出ていきましたよ」
その後、英明氏は「娘・松坂慶子への『遺言』」(光文社)なる著書を出版。確執はさらに深まったが、高内氏は沈黙を守り、松坂もまた両親の問題を語ることはなかった。
だが、憎しみを癒してくれたのは、やはり時の流れだった。一部報道によれば、英明氏の死後、松坂夫妻は実家に戻って母親を介護。昨年、100歳の母を自宅で看取ったという。骨肉の争いから30年、夫妻の胸に去来したものとは…。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。