徳川幕府2代将軍秀忠の御落胤(らくいん)・保科正之は、養父の恩を忘れず、生涯、松平姓を固辞した義理堅い男だった。
江戸時代、幕府の屋台骨を揺るがす大事件のひとつに、天一坊事件がある。山伏の天一坊改行が8代将軍吉宗の御落胤を称していたが、偽物として捕らえられて、獄門になった事件である。
だが、将軍の御落胤として正式に認定され、活躍した人物もいる。会津藩の初代藩主となった保科正之である。幼名は幸松という。正之は慶長十六年5月7日(1611年6月17日)に、秀忠の四男として生まれた。母は静の方(志津)、後の浄光院と呼ばれた人物だ。静の方は北条氏の旧臣だった神尾栄嘉の娘とも、板橋の大工の娘とも伝わっているが、定かではない。ただ、秀忠に見初められて手が付き妊娠、出産したのは確かだ。庶子ではあるが、歴とした東照大権現・徳川家康の直系の孫、3代将軍家光の異母弟である。
ところが母親の身分があまり高くないこともあり、当初、秀忠の側近数名以外には、その存在さえも伏せられていたという。ただ、武田信玄の次女である見性院が養育係となったことで、正之の運命が変化する。
見性院のツテで、旧武田家の家臣だった信濃高遠藩の藩主・保科正光に養育されるようになり、後に後継者に指名されることになったからだ。
家光が正之の存在を知ったのは、3代将軍になってからのことだった。家光は鷹狩りの最中に、目黒にある成就院という寺に立ち寄り、そこの住職から正之の存在を聞かされた。
そして2人は寛永六年(1629年)に、初対面を果たす。寛永八年(1631年)には、正之は幕府の命を受けて出府。高遠藩3万石の相続を認められ、正式に藩主、大名となった。
家光は正之を重用して政務に参加させ、寛永十三年(1636年)には、山形藩20万石を、さらに寛永二十年(1643年)には、会津藩23万石の大大名に引き立てた。
以降、会津藩は明治維新を迎えるまで、正之の子孫が藩主を務めることになる。
本来、将軍家は松平姓を名乗り、葵の紋を使用する。だが正之は、養育してもらった保科正光の恩を忘れることはなく、終生、頑なに保科姓を名乗り続けた。
正之の子孫が松平姓を名乗り、葵の紋を使い始めるのは、3代藩主正容になってからのことである。
なお、成就院にはお静の方がわが子・正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「お静地蔵」が境内に現存している(写真)。
(道嶋慶)