江戸前期、銀の差し歯を光らせながら、市中を嫌がらせして回る集団の親玉がいた。旗本奴の山中源左衛門、本名・重之である。
旗本奴とは旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団、かぶき者のことで、今でいうヤンキー、半グレである。代表的な人物は、3000石の大身旗本ながら無法の限りを尽くし、敵対勢力である町奴の大物侠客・幡随院長兵衛を殺害した水野十郎左衛門だ。
だが当時、水野に負けず劣らず有名だったのが、山中。小普請奉行も務めた、500石の旗本である。1石は140キロで、現代の米価格では約5万円。年収約2500万円のエリートサラリーマンといったところだ。しかも、役職手当である役料がつく。
だが、甘やかされた金持ちのボンボンで、とにかく性格が悪かったらしい。飲食代を踏み倒し、因縁をふっかけては金品を奪ったりもした。家屋の障子を割り、金品を強奪するなどの乱暴狼藉が大好きだった。仕事もせずに江戸市中を暴れ回わり、人が嫌がる姿を見て大喜びしていた。
旗本奴には水野が率いた大小神祇組、鉄砲組など、代表的なグループが6つあり、「六方組」とも呼ばれていた。彼らは江戸の方言を基にした、言葉の最後に「べい、べえ」などを付ける六方詞(ろっぽうことば)を使っていた。当時としては粗野な言葉遣いだったという。
服装も派手で色鮮やかな女物の着物を羽織ったり、袴に動物皮で継ぎはぎをしていた。通常の物より長い大太刀や大煙管(きせる)を持ち、町中を闊歩して恐れられた。
だが山中は、さらに異形だった。ケンカで折れたのかは定かではないが、前歯がなかった。そのため、銀製の差し歯を特注していたという。突然、出くわした人間は腰を抜かすだろう。
とはいえ、さすがに無法の数々が発覚。正保二年、切腹を命じられた。その時「翌日は鳥が掻ッ咬じるべい」で終わる、六方詞の辞世の句を詠んだ。それも驚きだが、一説によると享年はわずか21。満20歳の若輩者だったことは、さらに驚きだ。
(道嶋慶)