江戸時代の旗本、御家人の中で、悪党と呼ばれた人間は何人かいる。勝海舟の父親・小吉などもそのひとりで、博打こそしなかったが、色街・吉原での遊びを好み、喧嘩に明け暮れた。だが、不良旗本として恐れられていた小吉も小者に思える、希代の悪党旗本がいた。名前を富安九八郎という。
詳しい経歴は明らかになっていない。それでも、19世紀前半に編さんされ「御実紀」、通称「徳川実紀」の天保九年(1838年)6月29日の記事に、甲府勤番だった富安九八郎が「罪ありて六郷兵庫頭にあづけられた」とある。ただでさえ、甲府城を守る甲府勤番という役職は「山流し」とも呼ばれ、旗本、御家人にとっては究極の窓際ポストだ。その甲府勤番の役職さえも解かれ、六郷兵庫頭が城主の出羽本庄藩へ島流しとなったのだから、不名誉この上ない。
江戸時代にあったゴシップ紙「文化秘筆」に、僧侶の話が出てくる。当時、僧侶は遊里で遊ぶことを禁じられていた。ところがある裕福な寺の住職が、吉原の遊女を1人、身請けした。そして町中に家を借りて囲った。事実を知ったならず者が「奉行所に訴える」とゆすりにきたという。
その住職とならず者との間に示談屋として入ったのが、富安だった。結局、住職の罪は発覚。女犯の罪で遠島となり、富安も謹慎となった。
ご禁制だった鶴を捕獲して食べたこともあった。あるいは、上州から来た絹商人の絹を奪って殺害。その死骸の入った棺桶をわざわざ自分の家の前に置いて「誰かが家の前に置いていった」と無関係を装い、目付に届けたりもした。まさにやりたい放題だ。
さらに、数多くの女性に手を出し、もうけた男子は12人にも及んだが「やつらが成長したら、月替わりで世話になれる」とうそぶいていたという。
結局、それらの罪が露見して山形へ島流しとなったが、切腹や死罪にならないのが不思議なほどの、不届きな悪行三昧だろう。
本人は身から出た錆だが、周囲はたまったものではない。息子たちもアオリを食って改易となり、お家は断絶。富安の小普請組時代の上司も管理責任を問われ、将軍への拝謁を禁じられたという。
破天荒といえば聞こえがいいが、これほどはた迷惑な旗本はいない。
(道嶋慶)