上半期の映画界における功労者の筆頭は誰かといえば、阿部サダヲではないだろうか。様々な映画を思い返す時、彼の顔が一番に浮かんでくる。「死刑にいたる病」(監督・白石和彌)の阿部である。連続殺人を題材にした、サイコサスペンスだ。その犯人役・榛村を彼が演じる。全く新しい犯罪者像を作り出したと言っていい。
この作品が若い層を中心にヒットし、なんと興収10億円を突破した。上半期の興収上位にはアニメーションや実写の娯楽大作が居並ぶ中、過激極まる内容を持つ本作がここまでの成績をあげたのは、快挙であった。そのヒットの牽引役が阿部だった。
冒頭から、榛村が犯人だということがわかっている。自身も何件もの犯行を認めている。ただ一件だけ、自分が犯人ではないと主張する。その真相を探ってほしいと、岡田健史扮する青年・雅也を、収容されている拘置所に呼び出すのだ。時制は過去と現在が入り交じり、雅也を巻き込んだ残虐極まる大量殺人の真相が明らかになっていく。
2人の面会時では、雅也が榛村の口八丁の手練手管で懐柔されていく過程が、かなり緊張感を強いてくる。榛村の穏やかで滑らかな口調、冷静さと矛盾しない研ぎ澄まされた眼力、説得力ある話の内容などが、着々と雅也の心をとらえる。2人の間はガラスで区切られているのに、榛村からは相手を誘い込む強烈な電磁波が放たれているがごときであった。
この面会シーンとともに、残忍な犯行が前提になる過去のシーンでも目を見張る。榛村は、オシャレなパン屋を営んでいる。彼は店に来る一人の少女に目をつける。彼女に、どのように近づくか。いかに偶然を装うか。相手の用心の強壁を突き崩していく彼の近づき方、その時のさりげない笑顔がなんともゾッとする。作り笑い、偽りの笑いが、外部からは全く自然、普通に見える。だから、恐ろしい。
俳優には、役になりきるという重要な側面がある。カメレオン俳優という言い方もある。ところが本作の阿部は、そのような言い方では収まりがつかない。役になりきるというより、阿部サダヲが、別のいくつもの顔がある阿部サダヲを演じている感がある。本作でいえば、面会時、普通の生活者、残忍極まる犯罪者それぞれの顔である。
それらを、役として演じ分けているようには思えない。そこでは、俳優と役を結ぶ「演技」の回路が、従来型の演じるという形とは、かなり様相を異にしていると言うべきか。
本作の特異なサイコサスペンステイストの主要な部分は、阿部が発信源である。それがネットやSNSなどで広く伝わったこともあり、ヒットに弾みがついたと言えそうだ。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。「昭和の女優 官能・エロ映画の時代」(鹿砦社)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2022年で31回目を迎えた。