落雷を受けて半身不随になりながら、その後は輿に乗って戦場を駆け巡った──。
そう伝えられる、戦国時代から安土桃山時代の武将がいる。戸次鑑連(とつぎ・あきつら)、またの名を立花道雪という。「鬼道雪」とも呼ばれた名将だ。
永正10年(1513年)、豊後(今の大分)の戦国大名・大友氏の一族で、鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれた。元服前の14歳の時、2000人の兵を率いて初陣を果たし、倍以上の兵力を誇る大内軍に勝利したという。まさに、戦の鬼だ。
父の死に伴い家督を相続し、その後は主家・大友家の重臣として、戦いに明け暮れた。
中国地方の覇者・毛利元就との合戦では10年以上も大友軍の先頭に立って戦い、筑前と博多を防衛。その功績で元亀2年(1571年)、北九州地区の軍事権を与えられて筑前守護代に就任し、博多の立花家の名跡も継承、立花山城城主となった。そして出家後、法号として、道雪を名乗るようになったのである。
「大友興廃記」などによると、落雷を受けたのは35歳の時だったとされている。
炎天下で昼寝をしていた際、急な夕立があり、雷が体全体に落ちようとしていた。その雷を、枕元に立てかけていた刀「千鳥」で斬って飛び退いたのだという。
だが「千鳥」が避雷針となり、体に伝わった雷で左足が動かなくなってしまった。
雷の中にいた雷神を、持っていた刀で斬り伏せたとされるが、雷に当たった印が残る「千鳥」は「雷切」と呼ばれるようになった。
半身不随にはなったが、その後は生涯37回ともいわれる戦いでも、意欲はまったく衰えなかった。
6人に担がせた輿に乗りながら、「雷切」「備前清光」という銘の長刀と鉄砲、そして長さ約1メートルの棒を横に置き、時には自らかけ声をかけて、敵陣に突っ込んでいったという。
だが「鬼道雪」も、年齢には勝てなかった。天正13年(1585年)、柳川城攻めの最中に病気となり、看病のかいもなく、73歳で没した。
「道雪」の由来は「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない」=「武士は死ぬまで説を曲げない」から来ているという。
まさに武士の中の武士だった。
(道嶋慶)