笑い、義理人情、下ネタ、お色気、そしてアクション──あらゆる要素を内包し、シリーズ10作を数えた大ヒット映画「トラック野郎」。歴史に残る名作を生んだ娯楽映画の奇才・鈴木則文監督とはいかなる人物だったのか。監督が愛し、スクリーンを彩った女優が、ヒットメーカーの知られざる姿を追悼激白する。
死因は脳室内出血。5月15日に80歳で他界した鈴木則文(のりぶみ)監督の葬儀では、出棺時に「一番星ブルース」が流された。菅原文太、愛川欽也のコンビで一世を風靡した、あの「トラック野郎」シリーズの主題歌だった──。
1975年8月31日に封切られた第一作「トラック野郎 ご意見無用」が大ヒットを記録。すぐさま正月公開作品として製作されたのが「トラック野郎 爆走一番星」だった。
その二代目マドンナに抜擢されたのは、当時、清楚な美人歌手として人気を博していたあべ静江(62)。太宰治を愛読する女子大生役だった。義兄との許されざる恋に悩む一方で、星桃太郎(菅原文太)に一目ぼれされることになる。
「当時は音楽番組がたくさんあったし、『平凡』や『明星』といった芸能誌にも出ていたので本当に忙しかった。なので、この作品にはコマ切れで撮影に参加していました。映画出演は初めてでしたが、演技は子役時代からしていたので戸惑いはありませんでしたね。ただ、当時の東映はヤクザ映画全盛期。撮影所全体がそんな雰囲気で覆われていて、ものすごい迫力のある人たちばかりで、圧迫感というか、威圧感が凄かったです」
男臭い環境に放り込まれた彼女の目に、監督はどう映ったのか。
「でも鈴木監督はそのカラーとは違っていましたね。監督の中に文学青年だった匂いを感じることができました。私は寺山修司さんが好きだったんですが、監督は寺山さんと同じような、もっさりしたしゃべり方。言葉少なめで、どちらかというと、動より静の印象が強かった。ただ、ケンカのシーンなどは一気にいく。そういうパワフルな面も持ち合わせていましたね」
事実、鈴木監督は映画界屈指の読書家として知られたのだが、あべ自身が文学少女だったことも、監督の「内包された部分」を見る要因となったようだ。
「私は小・中学校時代はSF小説、とりわけ(アメリカSF作家の)ブラッドベリが好きでした。高校生になると芥川龍之介を読んで、短大では児童文学に親しみました。というわけで、太宰治よりも芥川龍之介党なんですが」
監督の演出について、あべは次のように回想した。
「ダメ出しとかほとんどなかったですね。ハンカチを出す時の手の位置を注意されたぐらい。高さも決まっていたりして。監督から言われたのは立ち位置と動き、セリフのテンポですね。テンポで性格や役柄が決まってくると言われました。私のシーンはアップが多くて、ほとんど切り返しで撮っていた。今思い出しても、わりとのんきに淡々と演じていましたよ。衣装なんかも監督に了解を取りながら、自前のものを使用していましたし。衣装部が用意したのを着たのは、最後の山登りに向かうところだけでしたね」
◆アサヒ芸能6/3発売(6/12号)より