「もし村上君がオレらの頃にやってたら、結構デッドボールもらってるよね」
槙原寛己氏がこう言えば、下柳剛氏も、
「村上君、結構危ないところに(ボール)放られると(投手を)睨んだりとかするでしょ。えらいことだよ、当時なら…」
これは史上最年少三冠王のヤクルト・村上宗隆に向けられた、野球解説者2人の論評である。槙原氏のYouTubeチャンネル〈ミスターパーフェクト槙原〉で語られたものだが、つまりは「俺たちの時代にプレーしていたら、村神様も無事ではすまぬ…」ということなのだ。
村上がレギュラーをつかんだ19年からの死球数は5個、3個、6個、7個と推移。では、村上が56本塁打と記録を更新するまで、王貞治の死球数はどうだったのかというと、初の本塁打王を獲った62年が12個で最も多く、55本塁打の64年は3個。王が2ケタの死球を受けたのは62年と68年の2回しかない。よけ方の技術も卓越したものがあったのだろう。
「NPBの通算死球数1位は、196個の清原和博で、当時のコーチが清原によけ方を教えるのを忘れたと回顧しています。ちなみにシーズン最多死球は、オリックス時代の07年に28個を記録したグレッグ・ラロッカ。広島時代の04年にはキャリアハイとなる40本塁打、101打点をマークしましたが、23死球を受けた。ヤクルト時代の06年にも20個の死球を記録しています。日本で7年間プレーしたうち、リーグ最多死球は3度。これはボールに向かって打ちにいく打撃スタイルを表しています」(スポーツ紙デスク)
故意の死球はNGだが、腰を引かせようとインコースに投じるのは戦術のひとつ。あの時代に村上がプレーしていたなら、はたして解説者2人の言う通りになっていたか。
(所ひで/ユーチューブライター)