時計を猪木VSアリ戦当日の6月26日に巻き戻そう。1ラウンド、ゴングが鳴った瞬間、猪木にとって最大のチャンスが訪れた。開始早々、下半身のガードが無防備だったアリの足元に対して、猪木はいきなりスライディングキックを仕掛け、ダウンを狙う奇襲攻撃に出た。アリの膝の裏に猪木の爪先がヒットしたものの、「チョウのように舞う」アリのフットワークにいなされ、致命的なダメージを与えるまでには至らなかった。
「あの一発が決まっていたらなあ」
試合後、猪木は悔しがったが、アリ戦での唯一の有効打とも言える瞬間だった。だが、ダメージがなかったように見えたのが、実はアリの「演技」だったことは、試合後のダメージが物語っていた。しかし、最後までアリは手の内を明かすことはなかった。
そのあとも、猪木はリングの上に寝転がり、近づいてくるアリの脚に執拗にキックを浴びせた。のちの「アリキック」である。
さらに、猪木はスタンドの状態で、アリの足をキャッチしようと何度も試みた。
6ラウンド、猪木はアリの足をすくい、アリを寝転がせることに成功。そのまま馬乗りになろうと体を回転させた瞬間、起き上がっていたアリの顔面に肘打ちをヒットさせた。しかし、ポジションがロープに近く、すぐにアリはエスケープしてロープブレイク。
そのあとも猪木は、再三にわたって、寝転がってアリの太腿の裏側にキックを浴びせる。しかし、アリの軽快なフットワークで決定打にはつながらず、ファンは膠着状態が繰り広げられる「凡試合」にヤキモキした。
新間氏の隣で観戦していたガッツ石松も、
「何でいかないんだ、猪木さん」
とゲキを飛ばした。しかし、その裏では事前に取り決められていた、“ルール”が猪木をがんじがらめにしていたのだ。
それは試合当日の3日前の6月23日のことだった。調印式が行われた席上、猪木はこう言ってアリを挑発した。
「いいかげんなルールを決めやがって冗談じゃない。お前、それでも男か。俺はどんなルールでも受けて立つと言ったが、我慢にも限界がある。お前がそんなに勇気があって誇りを持っているのなら、俺とお前の試合で勝ったほうが全てのギャラを手にするという契約書がここにあるから、サインしろ」
事前に取り交わした契約書は試合をしなくてもアリは9億3000万円のファイトマネーを手にするという一方的な内容だった。しかし、一般の視聴者は知るよしもない。ところが猪木は、生放送でのタブー破りで、アリに揺さぶりをかけたのだった。猪木の挑発にアリは見る見る顔色が変わる。
「俺には勝手にサインする権限がない」
アリはこう答えたが、猪木は引き下がらない。
「俺も権限がない。しかし、俺が今、申し入れているんだ。お前も男ならサインしろ!」
ここまで言われてサインしないわけにはいかない。アリは、公衆の面前で契約書にサインした。
“舌戦”では猪木が機先を制したのだ。