「実はね、合意していたエキシビションマッチは韓国内で行うことを計画していました。やるかやられるかの殺伐とした試合ではなく、自由にやらせてあげたかった」(新間氏)
ところが、猪木戦を終えたアリの体は、すでにボロボロだったという。
「アリはね、ファンが見ているところではしっかり歩いていたんだけど、エレベーターの中では足を引きずっていて、悲惨な状態でした。その証拠に帰国後、血栓症を患って、入院しているんです。一方の猪木さんだって、アリのパンチが顔面をかすっただけで腫れ上がっていましたよ」(坂口氏)
結局、2人の再戦が実現することはなかった。
それでも、世紀の試合で肌を合わせた2人はあの一戦でわかり合えた。その後、猪木とアリは急接近。誰もが知る猪木のテーマ曲「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」はアリから贈られたものだ。
90年の湾岸戦争時に猪木がイラクに渡って日本人の人質解放を交渉した際も、米国人の人質解放で成果を上げていたアリがフセイン大統領に口添えをしていたことが功を奏したという。
95年には猪木がプロレス興行を推進して北朝鮮で開催されたイベント「平和の祭典」に出席するため、アリもピョンヤンを訪問した。
「とはいえ、パーキンソン病を発症し、アリは車椅子の痛々しい姿でした。でも、義理堅い人でね。人種差別の問題に敏感で、しかも信念があったから、喜んで出席してくれた」(坂口氏)
99年、猪木の引退試合にも、アリは当然のように顔を見せている。
40年前の調印式では、猪木の突き出た顎を揶揄し、
「ペリカン野郎、今すぐ叩きのめしてやる!」
と挑発したアリだが、その後の人生では折に触れて、猪木との交流を深めていたのである。
坂口氏が感慨深げに語る。
「3年くらい前にアリ戦のDVDが出たんですよ。それをあらためて観戦したんですけど、まさにガチンコで迫力がある。当時、何も知らない世間は凡戦などと評しましたが、15R、互いに一瞬のスキもなかった、語り継ぐべき名勝負だったと思いますね」
蝶のように舞い、蜂のように刺す! 偉大なボクサーに合掌。