慶長二十年(1615年)に起きた大坂夏の陣後、斬首された豊臣秀吉の孫が生き延びた、という話がある。豊臣秀頼の庶子・国松だ。
国松は秀頼と側室・伊茶の間に生まれた。だが、正室・千姫に気を使った秀頼が手元では養育せず、生後すぐ伯母・常高院の若狭京極家に預けた。その後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となったという。
国松が父・秀頼と初対面したのは慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣が起きた直後だった。その後、大坂城に滞在していたが、翌年に大坂夏の陣が起き、乳母、その夫・田中六郎左衛門と城を落ち延びた。だが、徳川方の執拗な落ち武者狩りにより、伏見農人橋で捕らえられた。
市中引き回しの上、京都・六条河原で田中六郎左衛門、四国の大名だった長宗我部盛親とともに、斬首される。わずか8歳だったという。ここまでが、歴史の教科書に掲載されている話だ。
ところが、異説がある。大阪城には抜け道があり、国松は真田幸村の子・幸昌とともに脱出。薩摩藩の船に乗り込み、四国経由で薩摩に逃亡し、伊集院兼貞にかくまわれたという。だが、ウワサになったため、豊臣秀吉の正室・北の政所=高台院の甥・延俊が初代藩主となった日出藩に身を寄せることになった。
事実、木下家には「国松は薩摩国に落ち延びた」という一子相伝の言い伝えも残っている。縫殿助に名を改めた国松は、延俊の四男となった。延俊の死後は五千石を与えられ、木下家の分家・立石藩の祖・木下延次(延由)になったという。
大分県杵築市の立石郷・長流寺に残っている位牌の裏には、人目をはばかるように「木下縫殿助豊臣延由」と、豊臣の姓が刻まれている。
その後、徳川家の旗本交代寄合となる3代将軍・徳川家光にも拝謁。45歳まで生きたとされる。
一説には、徳川家は延由の正体を知りながら、見て見ぬフリをしていたという話もある。本当ならば文字通り、命拾いした人生だったことになる。
(道嶋慶)