大震災からおよそ2カ月。2011年5月になって、復興会議の構成員の一部が被災地を視察した。数多くの記者を従えた、大名行列のような視察だった。この時は大船渡市から始まり、陸前高田市の視察がメイン。あの「奇跡の一本松」脇の海辺で、構成員たちは思い思いの復興ビジョンを披露し、それを記者たちがぐるりと取り巻いている。
「あのね、このように海中に杭を打って高い人工岩盤を作って、その上に街を作るんです。そうすれば津波の被害も免れるし、日本中にアピールできる駅前として注目されるでしょ」
「なるほど、それはいいアイデアですね」
若い記者がヨイショしているのを聞いて、シラケてしまった。渓流釣りが趣味の私は東北にもよく出かけていて、陸前高田でも何度も竿を出している。東北地方で、アユ釣りで有名な気仙川は、陸前高田駅の近くが河口となっている。岩手県内でも街の規模が小さい陸前高田駅近くに商店街と呼ばれるようなものはなく、田んぼの間に商店があるような、長閑なところだったのだ。
「先生、ここに何があったか知っていますか」
人工岩盤の力説が終わると、こっそり聞いた。
「そりゃあ、駅があって住宅地が広がっていたんでしょ」
「いやいや、田んぼが広がっていたんです」
「田んぼ?」
先生の顔色が変わった。
「先生の計画を進めたらいくらかかりますか。費用対効果を考えたら、とてもとても無理じゃないですか」
ところが、である。復興という錦の御旗に誰も異論を挟むことができない大きなウネリに、陸前高田は飲み込まれてしまったのである。当初2メートルだった防潮堤計画は、どんどん高くなってしまう。そして、埋め立て計画に変更されてしまった。気仙川の向こう側の山を崩して、3キロもの長さのベルトコンベアで東京ドーム9個分もの土砂を10メートルの高さに盛り土して、造成したのである。その面積たるや、東京ディズニーランド2つ半という途方もない広さ。
現在、この造成地の6割は空き地のままであり、そのことは計画時点で予想されていたことだった。陸前高田がもともと過疎に悩んでいた街で、これといった産業がないのだから、計画自体が無謀だったと、今となっては指摘されているのだ。
「オレは盛り土の計画には反対だったんだ。本当だよ」
前出の先生は、反対したけれど、復興計画のメンバーから外れたから自分の影響は反映されていない、と弁明する。
「復興費用は国が負担するので、使わなければ損だという気持ちがあったのではないか。誰かが異論を言わなければならなかったのに、復興事業に異論を挟む勇気がなかった」(市の関係者)
傍から見ても、陸前高田市のやっていることは異常だと指摘されていたのだが、関係者たちはその指摘に目をつむったままだった。市や県や国の誰に決定権があったのかは、明らかにされていない。役人得意の「うやむやな決着」になっているのだ。
「責任者、出てこい!」
そう怒鳴りたくなるようなデタラメぶりであり、今後何十年、何百年も陸前高田の愚策と記憶されることであろう。
(深山渓)