江戸時代の初期、寛永十四年(1637年)に、長崎で起こった島原の乱を知っているだろう。この乱における一揆勢唯一の生き残りが、南蛮絵師の山田右衛門作(やまだえもさく)である。
幕府が出したキリシタン禁止令で棄教を強いられたキリシタンたちは、数々の残酷な拷問にさらされた。さらに、島原を領地としていた松倉家が、年貢だけではなく、家に棚を作れば「棚餞」、死者のために掘った墓穴に「穴餞」といった様々な税を設け、徴収した。納められない場合は水牢に入れての水責めなども行われたという。
こうした状況に、農民らが立ち上がる。当初はただの一揆だったが、幕府に不満を抱えていた浪人も加わり、総勢3万7000人が、原城(長崎県南島原市)に立てこもった。これが島原の乱である。
16歳の総大将・益田(天草)四郎時貞を据えた軍勢は幕府勢を再三、蹴散らした。だが、江戸幕府の総勢12万人を超える軍勢に、最後は屈してしまう。城に立てこもっていた老若男女は皆殺しとなり、乱は終結したのである。
ところが、山田右衛門作だけが生き延びた。幕府の内通者だったからである。彼はキリシタンだったが、積極的に参加した人間ではなかった。一揆勢に家を焼き払うと脅された上、愛する息子を人質に取られたため、やむなく従っていたのだ。彼は「学問道徳の男、文章の達者」としても知られており、一揆勢の軍師役として期待された人物だった。
その立場を利用して得た情報を、総攻撃前の幕府に流した。一揆勢に参加するに至った経緯を矢文で説明し、城内の様子を知らせる見返りに、自分と家族の生命の保障を要求したのである。
ところが、この接触はうまくいかなかった。幕府勢からの返信の矢文が、城内の夜廻りの者に発見されてしまったからだ。これを読んだ四郎時貞は激怒し、妻子を見せしめに処刑。右衛門作は手枷、足枷をされ、牢に閉じ込められてしまう。
彼は城に侵入した幕府軍に救出され、取調べで乱の経緯や戦いの状況を供述。その後は幕府軍の総大将である老中・松平信綱に連れられて66歳で江戸に住み、信綱の屋敷で絵を描いて暮らしたという。「日本史上、最大の裏切り者」と言えるかもしれない男の罪悪感、苦悩ぶりを示す資料は残っていない。
(道嶋慶)