また、産経は昨年10月、電子版号外で「村上春樹氏のノーベル賞受賞」を配信。もちろん、ノーベル賞候補ではあるが、村上氏はいまだ受賞していない。他にも93年11月に、産経は大昭和製紙副会長を直撃し、コメントを掲載した。ところが、後日まったくの別人だったことが判明するなど、信じられない誤報が多数ある。
さらに、12年7月には、東京で陸上自衛隊が行った統合防災演習で「区民に迷彩服を見せたくないから」として、11区が区役所内の立ち入りを拒否したと報じた。直後に11区から抗議を受け、即座に報道を訂正する事態に。このように、産経は誤報の数では他紙を圧倒している。誤報部門において、産経は“新聞界の覇王”なのである。
朝日と同じリベラルな論調で知られる毎日も、今回ばかりは朝日の誤報に手厳しい。さぞかし、優等生なのかと思いきや、そうでもなかった。過去に大きな誤報を打っている。
大型劇場型犯罪として昭和事件史に名を残す「グリコ・森永事件」での“行き過ぎ報道”だ。
未解決のまま迷宮入りした同事件は、今でも多くの憶測を呼んでいるが、89年6月1日付の毎日がすでに“解決”していたのだ。「劇場犯罪ついに 動機は? 全容は──グリコ・森永事件犯人浮かぶ」との大見出しを掲げたのである。この記事では、捜査線上に浮かんできたグリコの江崎勝久社長(当時)の知人ら4人が当局の取り調べを受け、犯人でほぼ間違いないとの論調で伝えた。
ところが、わずか9日後に毎日は「行き過ぎ紙面を自戒」という検証記事を掲載する。読者から「報道のしかたがセンセーショナルすぎるのではないか」というお叱りがあったので「自戒」するというのだ。おわびでも訂正でもなく、仰々しく「自戒」という言葉を使うあたり、毎日が劇場型犯罪の舞台で踊らされていたように見えるのは気のせいだろうか。
また、毎日のトンデモ誤報の決定版はこれだ。12年4月10日付の茨城県版に掲載された桜の記事である。土浦市にある県の天然記念物である桜が「見ごろ」で、「花見客でにぎわっていた」と写真付きで報じた。ところが、この桜は11年9月の台風で折れてしまい、この時点で切り株の状態だった。その後、現地取材は行わず、掲載された写真も昨春に撮影したものだったことが判明。恒例行事で「どうせ今年も」との軽い気持ちで、記事を掲載したのがミエミエである。だが、この記事を読み、花見に出かけた人が多数いたというから、とんだ迷惑な話だ。
他紙の“犯歴”は尽きず、よく朝日のことを言えたものだと思えてくる。こうした新聞各社の現状について、ジャーナリストの須田慎一郎氏はこう話す。
「新聞報道は速報性という役割も担っている以上、誤報は付き物という面もあります。では、どうやって誤報を減らすかという問題になりますが、そのために必要な誤報までの全容解明がいつも不十分なまま終わっている。それは、間違いを認めたくないという悪いプライドが邪魔をしているためでしょう。原発事故後、反原発を含めたイデオロギー対立という論点で、各紙は声高に自社の主張を叫ぶことが多くなった。今回の朝日の失態も、そうした観点から批判している紙面が多い。そして、朝日を叩けば、朝日の読者がウチの新聞を購読するかもという期待感から批判しているのではないでしょうか」
誤報以上に読者を振り回すのは、新聞業界の薄汚い思惑なのかもしれない。