日本初のプロサッカー選手でドイツ・ブンデスリーガで活躍したサッカー界のレジェンド・奥寺康彦氏が、元日本代表の城彰二氏のYouTubeチャンネルに出演。自身のサッカー人生を振り返った。サッカーがマイナースポーツだった1970年代に欧州移籍を成し遂げた人物だけあって、その人生は驚きの連続である。
奥寺氏がサッカーを始めたのは、現代の感覚からすれば遅い中学生になった時。しかも最初からサッカー部に入ったわけではなく、卓球部に入ったという。奥寺氏は、
「両親が大きな会社の寮の管理人をやっていて、寮に卓球台があった。中学に入ったら卓球部と決めていた。入部したら卓球台が少なくてぜんぜん打たせてくれず、つまらなかった」
と当時を振り返った。
そんな時に同級生がサッカー部に誘ってきたため「やったことがないがまあいいかなと始めた」という。
はじめはボールを蹴ることすら満足にできなかったが、顧問が1年生を集め丁寧に指導してくれたことで、プレーできるようになったという。こうしてサッカーを続けるうちに足が速くなり、学校で1番に。3年生の時はゴールを決めまくるまでに成長。高校はサッカー部が強い学校に進学し、神奈川では有名な点取り屋だったと明かした。
その後、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で活躍。日本代表にも選ばれた奥寺氏に転機が訪れる。ドイツのブンデスリーガ・ケルンFCへの移籍だ。
当時の日本代表監督である二宮寛監督は、奥寺氏や西野朗氏、金田喜稔氏など有望な選手を欧州のクラブチームの練習に参加させる。そんな中、ケルンFCのヘネス・バイスバイラー監督の目にとまったのが奥寺氏。直接「お前がほしい。どうだ?」と言われ震え上がったという。
すぐに返答できず、いったん帰国。その時の心境を奥寺氏は、
「嬉しい話だけど、すぐに行こうとはならなかった。結婚もして子供もいた。どうしたもんかなという気持ち。奥さんは『そんなことあるわけないじゃない』と言って信じなかった。2人目の子供がお腹にいたので躊躇した」
それでも周囲の後押しを受けドイツ行きを決断したという。移籍をプッシュしてくれた人物として、奥寺氏は意外な人物の名前を挙げた。
「川淵(三郎)さんが『行くべき』と後押ししてくれ、『日本サッカーにとって大事な一歩なんで』と古河電気工業の社長も説得してくれた」
こうして日本人初のプロサッカー選手が誕生。ブンデスリーガ優勝の快挙を成し遂げた。
それにしても、そんなレジェンドが最初は卓球部に所属していたとは驚きだ。