〈人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない〉
宇多田ヒカルが母親で歌手の藤圭子さんの命日である8月22日に、X(旧Twitter)にそう綴った。
圭子さんがこの世を去って、この日で10年が経つ。節目の年に、同じように家族が自殺した人たちに向けて〈自死遺族の集会に通ってみた時期、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたこの10年で学んだこと〉を伝えている。そしてXではこの10年を、次のように振り返っていた。
〈死に正しいも正しくないも自然も不自然もない〉
〈何かをすると決めた人間がそれを実行するのを周りがいつまでも阻止するのはほぼ不可能〉
〈今知ってることをまだ知らなかった時を振り返って「ああしていれば」「なぜ気づかなかった」と自分を責めるのはまだ手放す準備ができていないから〉
人知れず母の転落死で自分を責めた時期や葛藤、後悔があったことが伺える。
圭子さんは2013年8月22日朝、東京・西新宿のマンションから飛び降り、搬送先の病院で死亡が確認された。その後、長い間、精神疾患とそれに伴う妄想に苦しんでいたことが明かされている。
偶然だが今年8月22日、Xの医療系アカウントでも「自殺未遂の患者に冷たく接する救命救急の看護師はプロじゃない」「看護師が自殺を咎めることでさらに患者は自己肯定感を失っていく」など、「自殺」がトレンドになった。
自殺に至る人は、怖さや苦しさを味わってでも死を選ぶほど、生きることに苦しんでいる。「息をするのもしんどい」という人もいる。
筆者も問題提起した医療系アカウントに同感で、看護師個人の乏しい人生経験と安っぽい正義感を押し付け、生きることに疲れ果てた患者に冷たくあたる看護師には、資質などないと思う。患者を再び自殺に追い込む前に、病院を去るべきだろう。病院と医療職は命を絶った人、自殺への執念に駆られた人の全てを肯定し、受け止めるのだ。
もし家族や親しい人が自殺したことで今も自責の念に駆られている人がいたら、宇多田やpeco、広川ひかるのSNSを一読してほしい。苦しんでいるのは自分ひとりではない。表現者でもある彼女たちの呟きに触れ、故人との繋がりは永遠であることを気付かせてくれるだろう。
(那須優子/医療ジャーナリスト)