デビューを前にレコーディングが続き、石坂の作詞(一部は作曲も)によるシングル候補は4作になった。榎本は、勝負曲は「圭子の夢は夜ひらく」(70年4月)であったが、発売は3作目に置いている。この考えは「艶歌の竜」と呼ばれた伝説のディレクター・馬渕玄三に倣ったものである。
「馬渕さんは水前寺清子を手掛けていた時、レコードが20万枚を超えたら出荷を止めたことがあった。常識では考えられないけど、それによって次の新曲のオーダーが増えるという計算だった」
そのため、デビュー曲には候補作で最も地味な「新宿の女」(69年9月)を据えた。
榎本には、同じRCAから前年にデビューした「クール・ファイブの失敗」も脳裏にあった。1作目の「長崎は今日も雨だった」は70万枚を超える大ヒットだが、逆に言えば曲だけが独り歩き。2作目は12万枚と低迷する。
「藤圭子という歌手が歌に負けないよう、3曲の順番を考えたらああなったね」
地味とされたデビュー曲も37万枚を売り上げ、さらに74万枚、76万枚と右肩上がりのセールスを記録。新米ディレクターだった榎本の「大胆な試み」は成功を収める。
そして石坂は、過剰なまでの苦労話を圭子にかぶせた。浪曲師の父と、三味線奏者の母という環境は「フィクション」になりやすく、その最も有名な“談話”がこれである。
「上京するまで白いごはんを食べたことがなかった」
実際には浪曲師の収入は決して悪くなく、圭子が自分のことを貧乏と思ったことは1度もなかった。むしろ、極貧の少年時代を過ごした石坂自身を「怨念」のごとく藤圭子に置き換えさせた。
当時、石坂と接したマスコミ関係者は、こぞって同じ感想を抱いた。
「売り出したいのは藤圭子なのか、それとも石坂まさをなのか」
答えは「どちらも」ということになるだろう。こうした強引な展開が当たっているうちはいいが、瞬間風速のようにレコードの売れ行きが落ち着くと、2人の間にすきま風が吹いたと榎本は言う。
「デビューから1年後には石坂さんと縁を切りたがっていたよ。彼女のアイドル的な人気を前川清との結婚で失ったこともあるが、問題はそこからのケアをどうするかが事務所としての見せどころ」
長らくレコード業界に関わった榎本は、マネジメントの最大の仕事は「タレントの価値」を守ることだと言う。作詞家が本業である石坂には、そこまでのケアはできなかった。時には石坂が見つけてきた売れそうもない新人のため、大スターの圭子が「バーター」として扱われることもあったのだ‥‥。
77年に紅白を落選した圭子は、榎本を訪ね、夕方6時から12時間にもわたって泣き続けたという。すでに石坂と離れて別の事務所に移籍していたが、その“新天地”にも石坂の気配が見えることにショックを受けていたという。
「10年間、ありがとうございました」
79年10月17日、藤圭子は引退し、世間の目から逃げるように日本を去った。