衝撃の飛び降り自殺から間もなく1カ月──。70年代を象徴した「藤圭子という歌姫」の死は、今なお多くの謎を残したままだ。その遺体は2人の親族以外の誰の目にもふれず、別れを告げる場も用意されていない。デビューがそうであったように、幕引きもまた“完全なコントロール”をされていたのか──。
〈葬儀はなく火葬のみという報道を耳にし、疑問を抱かれている方や、母のことを案じてくださっている方もいらっしゃるかもしれません。遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました〉
突然、宇多田ヒカルが声明を出したのは9月5日のこと。藤圭子(享年62)の自殺をめぐって過熱する報道に対し、冷静に釘を刺した形である。さらにコメントは以下のように結ばれている。
〈葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います〉
一分の隙もなく練り上げられた「遺族の意志」であるが、それでも遺言書の詳細な内容は不明であり、また「弔問」の可能性も固く閉ざしている。それは、没後もなお「コントロール」されているような印象を受ける。
あの日──「本名・阿部純子」が藤圭子となり、日本中の関心をさらった69年。稀代の歌姫の誕生においても、厳しいコントロールを強いた男がいる。
作詞家であり、事務所の社長とプロデューサーも兼ねた石坂まさをのことだ。
「レコード会社は7社に落ちたし、NHKの『のど自慢』は13回も落選した。あの声が荒削りだと敬遠されたんです」
2年前に筆者が聞いた石坂の言葉である。糖尿病と脳梗塞を患い、失明状態で寝たきりの姿ではあったが、藤圭子の売り出しに奔走した日の記憶は細部まで鮮やかだった。
それにしても圭子ほどの歌声の持ち主がなぜ、どこのレコード会社からも敬遠されたのか。長らく担当ディレクターを務めたRCAレコード(当時)の榎本襄が“意外な理由”を明かす。
「当時のレコード業界は、大きな声で歌うと怒られるという風潮。レコードを聴く人は1メートル以上は離れていないだろうし、マイクの性能も、今に比べるとノイズが入ってしまうから」
藤圭子の最大の魅力である「ドスの効いた声」は、老舗のレコード会社には受け入れられなかった。それでもコロムビア傘下の弱小メーカーからデビューが内定したが、歌声に惚れ込んだ榎本が石坂を説得。石坂もまた、アメリカでは最大手だった「RCA」のレーベルがいいと判断し、内定を引っくり返す。
そしてデビューに向け、石坂の猛烈な売り込みが始まった。榎本の目には、連れ回される圭子は“猿回しの猿”のようにも映った。
「新聞社や雑誌社に圭子を連れて行って、その場で歌わさせる。でも、そのパフォーマンスがうまくいかなかった時は、人通りの多い横断歩道だろうとどこだろうと、石坂さんはすぐに殴るんだよ」
まだ17歳の少女が何かにつけて顔を叩かれる。榎本は2人の間に入るが、泣きやまない圭子はプイと飛び出してゆく。
「行く先は決まって東中野の公園で、そこから見えるアパートの2階の明かりをぼんやり眺めているんだ。彼女がグループサウンズの追っかけをやっていた『マー坊』の部屋なんだけど、それを見たら気持ちも落ち着いていたね」
なぜ、こんな小学生みたいなケンカを繰り返すのか‥‥。榎本はあきれつつも、それは石坂が作詞家特有の“女性的な一面”を持っているからと気づかされた。
やがて、2人の「棘」は、次第に大きなものになっていく──。