ローマ帝国の第3代皇帝カリギュラをはじめ、第5代皇帝ネロ、そして中国の初代皇帝である始皇帝に明帝国の創始者・朱元璋などなど、古今東西、世の中には暴君と呼ばれるギネス級の虐殺マニアが存在する。中でも自身の老いを恐れ、650人もの若い女性ばかりを殺害した女がいた。それが16世紀から17世紀、スロバキア共和国のチェイテ城で暮らした「血まみれ伯爵夫人」こと、ハンガリー貴族のバートリ・エルジェーベトだ。
エルジェーベトは1560年、バートリ家に生まれ、15歳で貴族フィレンツェ2世と結婚。チェイテ城で暮らし、4人の子供をもうけた。夫のフィレンツェ伯爵は英雄として知られる一方、その残虐さでもつとに有名な人物だった。夫に拷問を教え込まれた彼女はこの城で女性たちに対し、ありとあらゆる残虐の限りを尽くし、次々と死に至らしめていったとされる。西洋史研究家が解説する。
「彼女が最初に手をかけた女性は、雇っていた下女でした。下女が櫛でエルジェーベトの髪をといていた際に髪が引っ掛かり、痛みに激怒。そのまま刺し殺したとされています。ところが下女を殺害した瞬間、返り血を浴びた彼女が血を拭うと、その部分だけが若返っていたそうなんです。そこでエルジェーベトは部下らに命じて、村の若い女性たちをさらってきては拷問でなぶり殺しにして、女性たちから血を搾り取った。そしてその血をバスタブに溜めて浸かったというんです。血を搾り取られた女性たちの遺体は城のバラ園に埋められ、そこはいつも真っ赤に染まっていたと伝えられます」
しかしどんなことでも、慣れとは恐ろしいものだ。やがて村の娘だけでは物足りなくなったエルジェーベトは、下級貴族の娘を「礼儀作法を習わせる」と誘い出し、彼女たちにも残虐行為の限りを尽くした。逃亡した少女がハンガリー王に訴えると城に捜査が入り、全てが露見することになったのである。
「エルジェーベトの指示で残虐行為に加担していた侍女や召使達は全員処刑されたものの、彼女は身分が高い親類の懇願でチェイテ城に幽閉され、食事が運ばれる小窓以外は真っ暗に塗られた部屋の中で、3年後に死亡しているのが発見されたといわれています」(前出・西洋史研究家)
650人もの女性の血が流されたチェイテ城跡は現在もスロバキアにあり、首都ブラチスラバの北東約80キロの丘の上からチェイテの街を見下ろしている。ハンガリー最大の心霊スポットとして、怖いもの見たさの観光客があとを絶たない人気ぶりだという。
(ジョン・ドゥ)