1970年に吉本新喜劇に入り、今年で芸能生活51年を迎えた間寛平が、都内で芸能生活50周年+1記念ツアー「いくつになってもあまえんぼう」の記者会見を行ったのが、今年3月30日だ。当初、この記念ツアー公演は50周年となる昨年に開催される予定だったが、コロナ禍で延期に。
そんなこともあって、のっけからハイテンションな寛平は、新喜劇入団からの年表を見ながら「過去は振り返りたくない。未来に向かっていきたい」としながらも振り返りトークに花を咲かせ、1987年に勃発したあの「アメマバッジ裁判」にも言及。
これは1985年にスタートした関西ローカル番組「今夜はねむれナイト」で誕生した「アメマバッジ」をめぐる騒動だ。寛平が借金返済のため、局に内緒で10万個作ったはいいが、番組が3週目で終了。バッジは大量に売れ残り、業者から6000万円を請求される裁判に発展したのである。
「これを当てようと、勝負しようと思った。原価634円のものを1500円で売ることにした。全部売れたら1億5000万円。これで借金を返せると思ったんやけど…」
寛平はそう説明したが、冷静に考えると原価634円は高すぎる。そこで業者に抗議すると、
「ICが入っていると言われて、ほかの業者に調べてもらったら、そんなものは入っとらんかった」
ダマされていたことに気付いたものの、結局は「ハンコ付いたんやから、代金払ってくれ」という業者との間で裁判になる。だがこの裁判が演芸場の舞台以上に面白かったようで、筆者も裁判を傍聴した在阪司法記者の話を聞き、大笑いしたことを憶えている。
「寛平は真顔で『契約書を読んでも、誰が甲で誰が乙だかわからなかった』と。さらに傑作だったのが、アメマを知らない裁判官が寛平に対し、大真面目に『アメマとはどういう意味ですか』と尋ねると、寛平は『ア~メ~マ~』とギャグで説明した。でも裁判官は理解できず、もう一度、質問するんです。すると寛平が再び『ア~メ~マ~』とやったものですから、もう法廷は大爆笑の渦。あの時の裁判官の困惑した表情は、今でも忘れられませんよ」
寛平いわく、東京へ活動拠点を移した後、「24時間テレビ」(日本テレビ系)のマラソン企画などにより仕事が増え、なんとか借金も完済したというのだが、
「芸人にとって借金は芸の肥やし言われるけど、そんなんウソ。苦しいだけですわ~」
会見にはタキシード姿で登場し、お色直しではアメママンの衣装で再登場した寛平だが、
「アメママンの衣装を着るのは15年ぶり。でも、ツアーでは着ません。もう二度と着ません!」
苦い思い出が詰まった衣装の封印を宣言。う~ん、それにしても「アメマ裁判」を傍聴できなかったことが、重ね重ね残念だった…そう感じる寛平の会見だったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。