続いて文太の東映出演2作目となったのが、若山富三郎主演の新シリーズ第1弾「極道」(昭和43年3月、山下耕作監督)である。
文太は若山の子分役を演じ、チョイ役から脇役にステップアップした。セリフがひと言もなく、ナイフ投げの名手という無気味な役どころで存在感があった。それでも俳優としてのランクは、同様に若山の子分役で出た待田京介や山城新伍より下であった。
が、そのキャラクターと演技は、文太をキャスティングした俊藤浩滋プロデューサーをして、
「ちょっと変わっていておもしろい。使いかた次第ではいける」
との感触を得さしめていたのだった。
それから何本かの脇役出演を経て、文太が東映で初の主役の座を射止めたのは、移籍後1年半のことだった。それが「現代や○ざ 与太者の掟」(昭和44年2月、降旗康男監督)であった。
シリーズ化される作品となるのだが、1作目に若山富三郎、藤純子がゲスト出演する豪華さで、新スターとして文太を売り出そうとする東映の力の入れようがうかがえる。
続いて文太2作目の東映主演作が「懲役三兄弟」(同年5月、佐伯清監督)で、文太の兄弟分に若山と待田京介が扮し、ゲスト出演したのが高倉健。若山、待田の兄弟分2人が殺され、ラスト、お決まりの殴り込みシーンは、文太と客分の健さん2人によるもの。それは圧巻で、文太兄ィと健さんコンビの殴り込みシーンが実現したのは、2人の共演作品が多々ある中、あとにも先にもたった1本、この「懲役三兄弟」だけ。いまとなっては、これぞお宝ものの作品であろう。
その後も文太は京都撮影所で「関東テキヤ一家」(同年11月、鈴木則文監督)シリーズあるいは単発の主役ものを撮る一方で、鶴田、高倉、若山、藤純子主演作品にも数多くゲスト出演して瞬く間に売り出していく。昭和46年6月には川地民夫とのコンビによる「懲役太郎まむしの兄弟」(中島貞夫監督)が封切られ、これがヒットシリーズとなり、文太の人気を不動のものとした。
文太に幸いしたのは、東映任侠路線が好調を維持し5社の中では一人勝ち状態。主役が鶴田、高倉、若山、藤純子のローテーションだけでは間にあわず、もう1人、2人、主役を張れる人材を切実に欲している最中だったことだ。そうしたタイミングで俊藤プロデューサーの目に留まり抜擢されたのが文太だった。
昭和47年には、健さんもその役を熱望していたといわれる中島貞夫監督の「木枯し紋次郎」、さらには深作欣二監督の「現代や○ざ 人斬り与太」に主演、ともに2本ずつ撮られ、とりわけ後者の同1作目、2作目の「人斬り与太 狂犬三兄弟」は、次の「仁義なき戦い」を予感させ、その呼び水ともなるような衝撃作であった。
そして翌48年1月に封切られた「仁義なき戦い」こそ、実録極道映画の金字塔、日本映画史に残る名作として文太の代表作となり、文太はこの作品で一挙にスターダムへと押しあげられたのだった(すでに文太は前年夏の鶴田浩二主演のオールスター作品「博奕打ち外伝」に出演した際、その宣伝文句に、共演した鶴田、高倉、若山とともに「東映四天王」と謳われていた)。
◆作家・山平重樹