遡ること32年前、東京へ進出して人気が出始めていた頃のダウンタウンの原点である故郷、兵庫県尼崎市で友人知人や親族を訪ね歩いたことがある。「松ちゃんと浜ちゃんの涙と笑いの『青春履歴書』」という7ページのドキュメント記事を作ったのだ。
ドキュメンタリー企画なので、とりあえずは事前に、マネージャーだった岡本明彦氏(現社長)に協力を要請。筋を通したが、門残払いでへ連絡はなし。
そこで筆者を含め3名の記者が1991年12月28日から約3週間をかけ、尼崎周辺を歩き回ることになった。なぜ暮れも押し迫ったそんな時期に、と思うかもしれないが、これは「地元を離れている友達も、年末には戻っている」という担当デスクの軽いひと言が発端だった。
とはいえ、取材に行くこちらは正月返上だ。ところが皮肉にも、デスクの読みがドンピシャ。浜田の親友と連絡が取れると、次々に友人との対面が実現し、年明けに彼らが通っていた小・中・高校を取材。恩師から同級生、先輩、後輩に至るまで、貴重なエピソードと秘蔵写真をゲットして、トップの見開きページに高校時代の丸坊主の浜田と、リーゼントが崩れたような髪型の松本の写真をレイアウトした。「生き残るためには〝笑かす〟しかなかった!」という大見出しで、無事に記事は掲載されたのである。
この手の取材はまず遠くから攻め、それらの情報を集めた上で最後に本丸、つまり実家を訪ねるというのがセオリーだ。なぜなら、こちらが具体的な材料を持っていなければ、より面白い話を引き出せないからである。
というわけで、2週間の取材で外堀を埋め、最後に浜田と松本の実家を訪ねて2人の母親に話を聞き、身内にしか語れないであろう笑いと涙のエピソードを聞くことができた。
すると入稿日前日、編集部の電話が鳴る。出ると、相手は大崎洋氏(前吉本興業会長、当時の肩書はプロデューサー)だった。ダウンタウンの「育ての親」といわれた人物である。聞けば2人の母親から連絡があったので、「ぜひ、お目にかかりたい」とのこと。
そこで日時を決め、赤坂にあるホテルのラウンジで大崎氏と対面することになった。基本、芸能プロはこの手の「発掘モノ」はたいへん嫌がるものだ。なぜなら、場合によっては事務所が把握していない事実が出てきてしまうことがあるから。だが大崎氏は記事の内容にはいっさい触れず、こう語った。
「浜田は見ての通りチャランポランやけど、上手くやれる才能がある。でも松本は、ことお笑いに関しては自信を持っているんやけど、お笑い以外のことは絶対に受け付けん。例えば取材ひとつ受けるにしても、どう答えようか、前日から眠れなくなるほどですから」
1月29日に「大阪・関西万博催事検討会議」終了後の記者会見で、芸能活動休止中の松本について、
「今の僕にできることは遠くから寄り添う、それしかないかなと思います」
と語った大崎氏(現・共同座長)だが、松本の眠れない夜は当分、続きそうである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。