菅原文太が初めて「仁義なき戦い」と出会ったのは、東京から京都へ向かう新幹線車中でのことだった。
たまたま東京駅の売店で買い求めた週刊サンケイ(昭和47年=1972年=5月26日号)に、飯干晃一のドキュメント「仁義なき戦い」は載っていたのだ。文太がふだんはあまり読まない週刊誌を買ったのは、表紙に自分のイラストが載っていたからだった。
イラストレーター和田誠の手になるもので、まさにそのとき東映で全国一斉公開中の文太主演の「現代や○ざ 人斬り与太」のワンシーン──血染めの右腕に出刃包丁を手にし、ダボシャツ、下駄スタイルで立ち尽くす文太の全身像が描かれていた。キャプションに「新や○ざスター 菅原文太」とあった。
「初めて週刊誌の表紙を飾ったもんだから、喜んで買っちゃったさ、売店で。でなきゃ、買わないんだよ」
と、文太は正直に語ってくれたのだが、そこには飾らない人柄がよく表れていた。
その日の文太の京都行きは、東映京都撮影所での撮影(若山富三郎主演作のゲスト出演)のためであった。
週刊サンケイの表紙には、自分のイラストのすぐ横に縦書きに大きくクレジットされた大きな文字があり、いやでもそれが目についた。
〈新連載 仁義なき戦い 飯干晃一〉──とあって、
〈ホーッ、いいタイトルだな〉
と文太は内心で唸った。読んでみると、はたしてこれがすこぶるおもしろかった。連載2回目とあった。
そんなとき、映画人の考えることは誰もが同じである。これを映画化できないものか‥‥
「それで新幹線が京都に着くのが待ち遠しくてね。撮影所にすっ飛んでいって、俊藤さんはどこ? って訊くと、いつもの雀荘でマージャンやってるって言うんですよ」
文太の言う「俊藤さん」とは俊藤浩滋プロデューサーのことで、文太を東映に引っ張って大スターに育てあげた恩人であった。
文太は急いで撮影所近くの雀荘へ駆けつけ、俊藤の姿を見つけると、
「俊藤さん、これ、読んでください」
と、件の週刊サンケイを掲げながら近づいた。
「お、何だ、どうした?」
文太の息せき切って興奮ぎみの様子に、俊藤は怪訝そうに応じつつ、同誌に目を止めると、
「わかった。そこへ置いといてくれ」
と告げたのは、マージャンが佳境に入って手が離せないからだった。
後日、俊藤と文太の間で、
「これ、おもろいなあ」
「映画化してくださいよ」
「ほうか、おまえが言うなら考えるか」
という会話が交わされ、映画化の話へと進んでいったというのだが、俊藤の記憶は違ってくる。
俊藤が週刊サンケイの「仁義なき戦い」を初めて読んだのは、東京本社で行なわれる企画会議に出席するため、京都から東京へ向かう新幹線車中であった。文太同様、まずタイトルに感心し、本文を読むと中味もおもしろかったので、
〈これはいけるで!〉
とそのまま東映本社の企画会議に出るや、岡田茂社長(当時)に同誌を見せ、映画化したい旨を話したという。
広島出身の岡田は、同ドキュメントの舞台となった土地や抗争に馴染みがあり、知っている登場人物もいたりして、すぐに乗り気になった。
「よし、これ、やろう」
とその場で応じたという。
一方で、この1年前から飯干晃一を通して「仁義なき戦い」の元になった元美能組組長・美能幸三の生原稿に触れ、映画化を考えていたのが、日下部五朗プロデューサーであった。
岡田茂からゴーサインも出て準備に動きだした日下部が、当初主役にと考えていたのは渡哲也であった。が、交渉すると、渡は肺を病んで療養中の身、とても映画出演は無理という。
そこで誰にしようか思いを巡らしたとき、日下部の頭にパッと浮かんだ役者が文太だった。週刊誌の連載を読んでやりたがっているという文太の思いも伝え聞いていた。
〈あ、そうか、文ちゃんがいいな〉
文太の主役が決まった瞬間だった。
◆作家・山平重樹